宋常星『太上道徳経講義』(41ー17)

 宋常星『太上道徳経講義』(41ー17)

大いなる音はかすかなり。

口で言うことのできないようなものが「大きな音」であり、耳で聞くことのできないような音が「小さな音」である。「大いなる音」とは「無音の音」のことなのである。「かすか」な音とは「無声の声」である。例えば音階を奏でて「究極の元気(一陽の元気)」を開こうとする場合に聖人は、いろいろな音階の中から、その中核となる「音」をして「究極の元気」を開く。これは実際の音ではない。あらゆる音階は全て「究極の元気」から生じている。これが「大いなる音はかすかなり」である。この教えの重要なところは、つまりは聖人のように国を治め、民を治める時に重要となるのが、かすかな「心の声」であるということである。それはあるがままに発せられているのであるが、それを言語をして表すことはできない。こうしたことからすれば、無音の中に大いなる音があることが分かる。無声の中に小さな声があるのが分かる。それが「大いなる音はかすかなり」ということである。呂(呂洞賓)祖は「坐して無弦の琴の音を聞いて、造化の機を明らかに知る」と言っているが、それはここで言われていることと同じである。


〈奥義伝開〉ここでの「大」も大小の「大」ではなく「道」としての「大」である。そうであるから原文では「大音」と「希声」としてあり、「大小」ではなく「大」と「希」、また「音」と「声」としてこれらが対比関係にないことが示されている。「大いなる音」とは聞くことのできる音の奥にあるもので、それは音そのものとして現れてはいないことを言っている。サイレントマジョリティーという語もあるが、喧(かまびす)しくしている人の意見は少数でも目立ちやすいが、沈黙している多くの人の意見のあることを忘れてはならない、ということである。「格言」としてはこうしたものと理解できよう。白一色の世界では白を認識できない、というようなことである。一方、老子は表面的な事象の奥に真の姿(道)があることを言うものとしている。


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