宋常星『太上道徳経講義』(40ー5)
宋常星『太上道徳経講義』(40ー5)
「有」は「無」に生ずる。
「無」とはつまり無形であり、無色である。「無」が「無」であることには深い教えがある。それを人の根源的な心のあり方である「性」で言うなら、個人の「性」の中の「不壊の元神」が「無」とされる。大いなる道から言えば、つまりこれは「太極」「真静」「真無」の本体でもあり、造化の中枢であると言えよう。それぞれの物の根源を為すものでもある。そうであるからそこには奥深い「理」が存している。その「理」とは「気」や「動」や「用」の働きであり、これらは総て「無」の中から生まれているということである。そうであるから「『有』は『無』に生ずる」とされている。この章では、陰陽などが繰り返すことについて述べられていた。そして、そこには動静、体用の変化があるとされる。そして、そにには「意」がある。繰り返しでは同じことを重ねるのであるが、それにはそれが生ずる「機」がある。つまり、それは「風が吹くという機が生ずることで全てが混じり合う」ようなものなのである。つまり(地上の物が)混じり合うのにはそれが生まれる「機」がなければならないわけである。万物にあってこの「機」を有しないで働いているものはひとつもない。もし、こうした「理」がないのであれば、そこには大いなる道もないということになる。天地もまた存しないことになる。万物の根本とは、どこにあるのであろうか。万物が生まれ、育つ「機」はどこにあるのであろうか。ここでは「有」と「無」が述べられているが、それは見ることもできるし、聞くこともできるものである。そうしたものは「実有」といえよう。一方で見ることができず、聞くこともできないものは「実無」とすることができる。一般的には有とは、形や質のあるのが「有」である。無は、空であり形のないものである。そうであるが形や質を「有」している物の中にも「無」は存しているのを知らなければならない。形や質のないところにも「有」の存していることも知らなければならない。もし、よくこの「理」を明らかにし得たならば、繰り返しの「機」の奥義を悟ることができよう(あらゆる存在は「無」から生まれているのであり、この「無」は相反するものを内容する「弱」的存在であるということ)。そうなれば(真の「静」を開くことができるので)本来の自分の心の根源的な働きである「元性」が正しく働き、本来の思考の根源的な働きである「元神」は曇ることなく、本来の根源的な活力である「元気」も乱れることはない。本来の生命力である「元精」は自ずから安定して、根本の理である「元理」を自ずから悟ることができる。そうなれば天地と一体となった「元機」が自ずから働くようになり、「性」と「命」はひとつとなる。「(本来の自己に還る働きである)金丹」も成ることになろう。そうであるから道を養おうとする人は、思考において(意)は邪念にとらわれることなく、感覚において(心)は妄想を抱かないようにする。邪念、妄想の激しい働きに関わらないで「柔弱の志(とらわれのない気持ち)」を持つようにする。語り口は柔和で、言い争うようなことはしない。およそ謙譲を旨として、勝ちを争うこともない。どのような苦労の中にあっても、昼夜眠ることができないようなことがあっても、そこにただ「有無の理(状況は必ず反転する)」の奥深い教えを求めるだけである。そうした「理」をよく悟った人が、優れた師から真訣を得ることができると、あらゆるものの「動静」「体用」の機微(根源である真の「静」)を知ることができるであろう。「反」の繰り返す「動」きや「弱」のあらゆるものを受け入れる「用」の奥深い働きを悟ることができるであろう。もし、そうした悟りを得ることができなかったならば、外面はどのように立派に見えても、性命の実理を修することはできておらず、心に迷いが生まれ、情は乱れることになろう。「真常の道」を失い、生死輪廻の苦海に沈むことになろう。そうなればどのように長く修行をしようとも本来の自分の「性」に復することはできない。それは故郷を忘れて、どのように故郷に帰ってよいのか分からなくなっているような状態である。それは見ず知らずの土地にあって、衣食を求めることもできず、死んでしまうより他ないような状況である。ひじょうに長い時間にあって生まれ代わり生まれ代わって「機」を得て「性」を悟った人は、世の出来事の本質を知り、まさに繰り返しの「機」の奥義(その根源にある真の「静」)を悟ることになる。ただ、その奥義は言語をして説くには、その意味するところはあまりに広大で深い。その「理」のおおよそはここに記されているが、ここで全てが尽くされているわけではないことを知らなければならない。修行をする者はこれ(真の「静」)を重んじるべきで、けっして軽んじてはならない。道は奥深く、それを形容することもできないが、それを老子は繰り返し説いている。
〈奥義伝開〉物は「有」るとして認識できる。それを更に強く知るのは、物を失った時である。そうであるから「有」は「無」を通して認識されると老子はしている。空気のように常に有るものは「有」ると認識されることは少ない。しかし空気がなくなると、その「有」ることを強く知るようになる。これは人が亡くなった時などは、特によく実感されることでもあろう。ここで老子は存在の認識について述べている。最後に触れた「無」と「有」も冒頭の「反」の関係、位相的な関係にあることは言うまでもなかろう。唐突に「有」が「無」から生まれるとあるのを奇異に感ずる向きもあろうかと思うが、これは「有」は「無」を認識した時に知ることのできるものであるというごく当然のことを述べているに過ぎないのである。