宋常星『太上道徳経講義』(39ー11)

 宋常星『太上道徳経講義』(39ー11)

つまりは「輿(こし)を数えようにも輿はなく」であり「求められないのは役に立たない玉」であり「ただ落ちるだけの石のよう」ということである。

ここには「謙譲」ということの意味をまさに見ることができる。「貴」や「高」という名に聖なる君主は拘泥することはない。それは車職人が車を作るのと同じで、車が組み立てられる前にあるのは、車輪であったり、軸であったり、横木であったり、軛(くびき)であったりする。この時点で「車」の数を数えようとしても、ただ部品があるだけで車として数えることはできない。これらの部品は車として完成するであろうと思われるものの実際に車となってはいないからである。これがつまりは自分が「貴」かったり、「高」い地位にあることを自認しないということの意味なのである(すべては相対的な価値観によるものであって、絶対的な価値をいうものではないのである)。また大いなる道の奥深さはこうしたところだけにあるのではない。例えば「仁」「義」「礼」「智」は、これを合わせれば「道」となるが、「仁」や「義」は実際の行動において、それをそうであると言うことができるが、「道」はそうはならない。あるいは「賞」や「罰」「刑」や「政」のようなことでも、これを合わせれば「治(世の中を治める)」ということになる。「賞」や「罰」も実際の行為を指して言うことができるが、「治」ということもまた特定の行為に限定して言うことはできない。こうしたことからすれば「求めないのは役に立たない玉」や「ただ落ちるだけの石のよう」の二つは、まさの「貴」「賤」のことを言っていると分かる。それはどいうことか。「玉」とは石の中でも「貴」いものである。「石」は山の石のようにどこにでもある「賤」しいものである。人は「貴」いものを得たり、「賤」しいものを得たりするが、こうした中で求めることがないのが「玉」であっても「役に立たない」ものである。あるいは「石」であっても「ただ落ちるだけ」の石である(「玉」は価値のあるものであるが、そうでない「玉」もある。「石」は価値のないものであるが、珍石などそうでない「石」もある。)。貴賤を共に忘れて、混合して一つにする。そこには貴賤の名は存しない。貴賤の区別もない。ただ「一」となるのである。まさにそれが侯王が「一」を得たということである。侯王は自分では貴い位にあるとも、高い位にあるとも思ってはいない。つまり天下の大本はこうしたところにあるのである。こうしたところに天下を統治する大本があるわけである。この章では、侯王が「一」の大いなる道を得るということを教えている。ここに天下の大本が立つのであり、貴賤は共に忘れられる。そしてまた修行においても大本がある。それが立てられないと修行は成り立たない。それは「性」が我が身にあるということである。(心の根本である)「性」は我が身の「天」であり、(体の根本である)「命」は我が身の「地」である。純粋なる(思考の根本である)「霊」は我が身の「神」である。体の霊的な中心(竅)のそれぞれが通じ合っているのは我が身の「谷」である。五臓六腑、眼耳鼻舌、鬚(ひげ)眉鬢(左右の髪)髪、涙唾血液など体の中のいろいろなものは我が身の「万物」である。心の中の「神」、身の中の「気」は我が身の中の「侯王」である。もしよく「性」と「命」が本来ある状態に落ち着いたならば、「神」と「気」は協調・和合して、常に秩序正しく、常に静かであり、雑念の生まれることはなく、無欲、無為で、特別なことをしなくても、心身は自然に安定する。「性」も「命」も自ずからあるべき(真常)を得る。これがつまりは天が秩序を得て、地が寧(やす)らかである境地なのである。さらによくこうした状態を養っておれば、神や気は全身に満ちて、先天の気が開け、「谷神」がひとり虚の中に立つようになる。これがつまりは「神霊谷盈」の妙境である。そしてまたうくこれを養えば「聖なる胎」を得ることができる。生死の理のことごとくを知り、その循環は止むことのないものであることを悟る。これがつまりは万物が生きることの奥義なのである。そして「性」が整い「神」と融合したならば、心は清らかで意識は安定し、「性」と「命」のあるべき状態(真常)が得られ、無為の至道が守られることになる。これはつまりは「我が身」を「天下」としての天下にあっての「貞(ただしい)」が、我が身では「静」となるという秘された教えなのである。この境地に至ったならば、自分にも他人にもとらわれることはない。天もなければ、地もない。すべては「空」となり、何ものへの執着もなくなってしまう。侯王は自分を「貴」いと思う必要もないし、自分を取るに足りないものとすることもなく、天下は「賤」しいものとする。そうなれば名利も要らず、名誉も恥辱も生じることがない。これを「道の人」と言わないで誰をそう呼ぶべきであろうか。得道の人で「一」を得ていない人は居ない。よく「一」を得れば総ての修行は終わるのである。


〈奥義伝開〉ここでは「「輿(こし)を数えようにも輿はなく」「求められないのは役に立たない玉」「ただ落ちるだけの石のよう」の三つの諺が「調和的な統一」を得た状態の説明として適当なものと老子は引用している。これらは総て「当たり前のこと」「合理的なこと」であることを言っている。つまり老子の言う「調和的な統一」としての「一」はごく当たり前の状態を言うものに他ならないわけである。例えば「輿(こし)を数えようにも輿はなく」は、金銭や地位を得た人物が「自分もかなりの地位を得たのであるから、さて高級車である輿は幾つくらい持てるようになったか」と思って数えようとしても、それを得ていなければ数えることはできない、ということであり、状況がいくらそうであっても、実際に得ていないものは持っていないのと同じという教えである。銀行に貯金はあっても使わなければ金がないのと同じといったところか。「求められないのは役に立たない玉」も不吉とされるような玉をあえて得ようとする人は居ない。一般的には求められるのが当然の玉であるが、そうでない玉もあるわけである。「ただ落ちるだけの石のよう」は石は自然には飛び上がったりはしない。石が落ちるという当然のことが、ただ起こったという意味である。怠惰な生活をしていると暮らしが成り立たなくなるのは「ただ落ちるだけの石のよう」と言ったところであろう。このように老子はここで「一」である「調和的な統一」は普遍的な真理であると説こうとしているわけである。


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