宋常星『太上道徳経講義』(39ー10)

 宋常星『太上道徳経講義』(39ー10)

要するに「貴」くあるには「賤(いや)」しさが基本になければならず、「高」くあるには「下」となるものがなければならない。そうであるから「侯王は自分で『一人では生きていけない』と言う」とされているが、これは自分を「賤」しい者としていると見ている良いのであろうか、そうではない。

ここでは「侯王」について述べている。侯王は高く貴い位にあるのであるが、その「高貴」なるものの基本となっているものを考えないわけにはいかないということである。「(統治国家である「天下」を統治する方法としての)天下の道」にあっては、そこには必ず君主が居なければならない。また君主には必ず臣下が居なければならない。そして君主は「尊」く、臣下は「賤」しいとされる。「天下の道」にあってこの関係は変えることはできない。例えば天が「高」く、地はその「下」にあるのと同じで、こうした関係は不変なのである。こうした「理(=道)」があるので、「貴」さは絶対的に「賤」しさが基になっているのであり「貴」さがそれ単体で「貴」くあるわけではない。そこに「賤」しさがなければならないのである。侯王は最高位にあるとしても、それは単体でそうであるのではない。そこには謙譲の心がなければならない。例えば「天の道」にあっては物を受け入れ、「地の道」にあっては物を養い、「聖人の道」にあっては物を得るということがある。「天の道」の「物を受け入れる」とは天が虚であるからである。地の道で「物を養う」のは地の気が虚であるからである。聖人の道にあって「物を得る」のは聖人の心が虚であるからに他ならない。よく心を虚にすることができれば、天は必ず物を与えてくれるものであり、人は必ずそこに帰するものなのである。天が与える物、人はそれを得ることができるが、それは「賤」しくひり下ることで得られるようなものではないのである。そうであるから「『貴』くあるには『賤(いや』しさが基本になければならず、『高』くあるには『下』となるものがなければならない」とされている「高」とは、その功績の高いことが天下に認められているということであり、「下」とはそうではないもののことである(つまり「高」と「賤」は対の関係にあるのではなく個々別々なものなのである)。侯王はその地位にあって高い功績のあることは天下に認められているが、心の中ではそうは思っていない。それは「功績があってもそれに執着することはない」(第二章)のであって、大体において聖なる君主の地位は、その天下における功績によって認められるのであり、聖なる君主が特別な(高い人、高貴な人)人というのではない。もちろん天下において余人の行うことのできないようなことをした人であっても、聖なる君主は心の中では、自分は他の人と違っていると思ってはいない。他の人々と等しいと考えている。それは民と心を同じくしているからであり、人として何ら変わりはないと考えるということでもある。聖なる君主も民も、天下にあっては、あらゆる存在は同じ理(一)の中にあるのであり、それは聖なる君主であっても変わるものではない。そうした心は、人としての根源の働き(性)においては、そう考えるものなのである。この「理」を得たならば、その「道」が得られ、自ずから自分が高い地位にあるとは思わなくなる。これはまさに人の本来の心のあり方である「性」を悟って心の迷いが晴れたということであろう。「一」の奥義に至ったということであろう。そうなれば天下の人々は聖なる君主に服すし、天下の物は聖なる君主のところに帰するようになる。民は安らかに暮らし、国も自ずから安泰となる。高位に居る者はその地位を永遠に保ち、その功績は自然と永遠に語り継がれることになろう。こうして見ると、ここでの「高」「賤」は天下を基準にしていることが分かろう。ただ、ここに「『高』くあるには『下』となるものがなければならない」とあり、また「『貴』くあるには『賤(いや)』しさが基本になければならず」とあるのは、「高」さは「下」があるから高いのであり、それを根拠としていると読むのが普通である。例えば侯王は常に自分で「一人(孤寡)」であり、それでは「生きていけない」と言っているとあるのことであるが、これはどういったことなのであろうか。「孤」とは人々と交わりがないということである。「寡」とは徳が少ないということである。「生きていけない」とは、あるべき生活が送れない、ということである。これらは総て侯王が虚心で謙譲であるということを言っている。こうした謙譲ということが、「『賤(いや)』しさが基本になければならず」ということなのであることを知らなければならない。それが「侯王は自分で『一人では生きていけない』と言う」ということである。つまりは「『賤(いや)』しさが基本になければならず」ということになるのではなかろうか。


〈奥義伝開〉ここと次は「諺」を挙げての補足的な説明である。「侯王は自分で『一人では生きていけない』と言う」とは、中国では本来ペアである陰陽が孤陰、孤陽であることについて「孤陰は生まず」「孤陽は成らず」という諺がある。「孤陰」とは独り身の女、「孤陽」は独り身の男のことで、子供が産めない、育てられないということである。「侯王は自分で『一人では生きていけない』と言う」のも同様で、本来は高い地位にあって多くの人に取り囲まれている「侯王」であるが、他人の助けが無ければ生きていけないと、一人の時には正直にそれを認めている、という意味である。簡単に言えば「どんなに偉くても一人じゃ生きていけない」ということである。しかし、老子は「一人」というのを「一」とする。侯王も「一」を得なければ生きていけないと解するわけである。それは「高」い地位の侯王に、「賤」しい地位の助けてくれる臣下が必要ということではない、と老子は再解釈をする。本来はそうであるが、老子はあえて違う読み方を提示している。


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