宋常星『太上道徳経講義』(38ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(38ー4)
本当の徳(上徳)は無為にして行われるが、それが及ばないところはない。偽りの徳は殊更にそれを為そうとして行われるものである。
ここで述べられているのは、本当の徳(上徳)と偽りの徳(下徳)のことであるが、これが等しく「徳」として行われていたとしても実質は異なっているということである。本当の徳を身につけている君主は、自然、無為の道を得ていて、虚飾がない。欠けているところがないのである。一方、本当の徳を身につけていない君主は、意図的に自己の行為にこだわらないように見せかける。徳の本質には全くもって決まった形があるのではない。本来的にそれがどのようなものであるのかを規定することはできない。もともと誰かが「徳」とは何かを決めることのできるようなものではないのであり、そうであるから「徳」を行うといって何か特定のことを為すということもできないものなのである。そうであるから徳を行うには心は大いなる虚となっていなければならない。まったくこだわりはなく(空空洞洞)、濁り無く清らか(湛湛清清)としていて、心に何かしようと思う(有為)ことなく、それが行動にそのまま現れている。外的な行為と内的な思惟とがひとつになって、内と外とが等しくなっている。そうであるから「本当の徳は無為にして行われるが、それが及ばないところはない」とあるのである。偽りの徳を行う人は、心が円満の境地を得ていない。そうであるから自分の思ったように行動しようとする(そうなれば「徳」を受けられる人は限定される)。自分が行ったこと全てが完璧な「徳」の実践であろうと見せようとする。それは「徳」を行っている人という名声を失いたくないからである。こうした意図をして「徳」を行うと、どうしても適切でない場合が生まれてしまう。簡単に実践できる時もあればそうでない時もある。やり過ぎる時もあれば足りない時もある。適切な関係が持てる時もあればそうでない時もある。こうしたことが頻繁に起こるのである。これが「偽りの徳は殊更にそれを為そうとして行われるものである」である。偽りの徳では自然のあるべき働きとひとつになることはできない。無為で、とらわれのない(渾化)境地に入ることはできないのである。それは意図的である(有為)からに他ならない。
〈奥義伝開〉人の行為が他人に見えるのは「過度」である場合と「不足」のある時である。これが「徳」の実践であれば「過度」であれば褒められるかもしれないし、「不足」であれば批判されるかもしれない。しかし、ちょうど良く行われていると、それは全く自然であるように見えるので、褒められることも、非難されることもなくなる。武術では他人からその功の深さが分かる勝つことが最も優れているのではなく、争いが起きない状態を維持している方が、道の実践としてより優れているのであり、それは徳の実行ということにでもある。