宋常星『太上道徳経講義』(37ー5)
宋常星『太上道徳経講義』(37ー5)
「無名の樸」は求めようとするべきではない。それをして欲望を鎮めようとしてはならない。それはこの世にあって自ずから正しいところに導くものなのである。
本当に欲望を鎮めるのは「無名の樸」であると思う。この道より他にはない。それを為政者が行えば民は無欲となる。民が無欲となれば、物事にこだわりがなくなる。そうなれば情欲が「性(心の根源的な働き)」を乱すこともなくなることであろう。民の「性」は静となる。そうなれば思いに偏りがなく、妄想にとらわれることもない。あらゆることが正しく行われるようになる。そうしたことを「無名の樸」と言っている。あるいは欲望がなくなれば、それは「静」を得ることになって、この世は自ずから正されるであろう。人には天から受けた「性」がある。それが気(生命エネルギー)を得て働きを持つのであるが、これは自然のままの働きをする。至清、至正である天から受けた「性」は、そのままの働きをするわけである。しかし気に乱れがあれば、性も本来の働きができなくなる。しかし本来の「性」が失われるのではない。その現れにおいて清や正が失われているに過ぎない。ここのように現れとしての「性」と「性」には自然の道に違うところが見られたとしても、「性」の本質は「善」であり自然と一体の「一」であることに変わりはない。人は修行によって乱れた状態から正常な状態へと復することは可能である。それには「静」をもってしなければならない。「静」とは「無欲」であるということである。もし「無欲」であることができたならば、「性」も自ずから「静」まることであろう。そうなれば「性」の働きも自ずから「正」しいものとなる。「性」の働きが「正」しくなればあらゆる行為が正しいものとなる。そうであるから聖人は、この世を正しくしようとするには、始めに人の「性」を「正」しくさせるのが急務と考える。人の「性」が「正」しいものとなれば、善悪や真偽の違いにとらわれることはなくなる(相対的な善や真ではなく大いなる道による無為が行われる)。意識的な行為においても、そうした思いが生まれることはないのである。つまり「性」とは「道」によって働いているのであり、心の働きもその「理」によっている。天の「理」をよく明らかにすることができれば、本来の「性」に復することができる。そうなれば人は天の「道」を得るといえる。「性」「理」「道」は本来はひとつのものである。そうであるから老子はここで人の「性」にのみ言及しているが、それは「性」だけではなく「理」や「道」にも通じることなのである。
〈奥義伝開〉「無名の樸」が「使いものにならない」ことと理解して、そのようになるようにするとこれは「無名の樸」として自分を規定することになる。そうなると本当の意味での「無名の樸」ではなくなってしまう。それを意図したら「無為の道」とはならないわけである。もし「無名の樸」たることを求めたならば「限定した価値感」「固定した観念」に依らないということではないことになる。武術でいうなら形にとらわれない、ということで形を無くしてしまうと、かえって一定のパターンから抜け出せなくなってしまう。太極拳や八卦拳で形を用いて稽古をするのは、それを否定して形のとらわれから脱するためなのである。