宋常星『太上道徳経講義』(37ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(37ー4)
道によって事を為そうとする。そうした時には自分で「無名の樸」なるものを用いるのである。
ここで述べられているのは、正しいものによるのでなければ世情の変化に対応できないということである。もし政治を司る者(侯王)が、大いなる道によったのであれば、それはまったく正しい統治となることであろう。心には何のわだかまりもなく(廓然大公)、それは天地と等しい。心の本質(性)は太虚となり動静はひとつになっている。内外に区別なく、その変化は無窮である。しかし、大いなる道によらないならば、利欲の心が生まれ、無為の変化は行われず、有為の行いに取って代わられる。それは始めは無為のようであっても、次第に私欲が現れるようになり、偽りが横行するようになるわけである。そしてそれはますます拡大して行く。そして、こうした人が増えることで世の中の道徳観も変わって行き、人の心も大いなる道から外れて行くようになる。社会のあらゆるところで自らの欲望を満たそうとするようになるのであり、人々も自分の利益だけを求めて当然と思うようになる。もし、そうしたものを「無名の樸」をして鎮めることがなければ、社会の欺瞞は限りなく大きなものとなって行くであろう。「無名の樸」とは永遠なる無為(真常無為)の道のことである。これによらなければ、他に欲望を鎮める方法はない。老子は政治を司る者が「無名の樸」を守ることがないことを恐れていた。そうなれば変化に対応することができなくなり、社会に欺瞞が生まれることになる。そうであるから「無名の樸」のあることを示して、そうした社会的な欺瞞を鎮めようとしたのである。もし社会の欺瞞を鎮めようとするのであれば、政治のリーダーは「無名の樸」の実践に努めることになるわけである。ここで言うところの「無名の樸」とは第一章の「無名は天地の始め」と同じで、渾然としている状態のことである。「無名の樸」によって欲望を鎮めるとは、自然に従うということである。例えば世に利欲による争いが生じたならば、為政者はただ無為を守る。そうなれば利欲を争う民も感化されて無為となる。為政者が静を得ていれば民も自ずから無為となる。為政者が利得を求めなければ民は自ずから富むようになる。為政者が無欲であれば民は自ずから過度な要求をしなくなる(樸)。つまり欲望が鎮められるわけである。これが「道によって事を為そうとする」ということである。つまり欲望を鎮めるには「無名の樸」をもってするのが適当なのである。道を修せんとする人は、性(心の根源的な働き)と情(心の働きの現れ)とをひとつにすることができなかったならば道を守って行くことはできない。人と法とがひとつになっていなければならないのである。「有」にとらわれることが無ければ、「無」にとらわれることとなる。そうなると「神(心を働かせるエネルギー)」は乱れてしまい、いろいろな欲望は鎮められることがない。そうなると心に迷いが生まれ、心が乱れてしまうこと限りがない。こうしたところから「道によって事を為そうとする」ということの意味を考えてみると、道を守ろうとする人が、始めは物にとらわれないようにして、欲望を捨てる。次には知恵の力で自分の中において法(宇宙の本質)と性(自己の本質)がひとつであることを悟る。そうなれば自然に「法」と「性」はひとつとなる。自分の欲望は知恵となり、知恵は無為となる。「無為の道」は「徳(宇宙の働き)」と「性(自己の本質)」とがひとつになった道である。この「徳」と「性」の道は、これを守っていれば欲望を鎮めることができる。自己の中の「民(心)」や「物(体)」の働きも、自ずから私欲を離れてしまうことになる。為政者の取るべき道も、自己の修行において取るべき道も何らの違いもないのである。
〈奥義伝開〉ここであえて「無為の道」ではなく「無名の樸」という語を出しているのは例の如くに当時、よく言われていた格言のようなものとして「無名の樸」があったものと思われる。これは本来は「名も無い木」ということで「使いものにならないもの」「求めラらない存在」という意味であったかもしれない。それを老子は価値ある教えとして再発見しようとしているわけである。価値を認められていないものには、限定されない無限の価値が秘められている、と老子は解釈するのである。