宋常星『太上道徳経講義』(37ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(37ー2)
道は無為を常としており、それが行われないところは無い。
大いなる道は本来、不変であり変化をすることはない。こうした「真常」の理においては、大いなる道は存すると決めつけることもできないし、存しないということもできない。物に限定されないし、空に限られるものでもない。こうしたことが「性命」の根源にあるのであり、「万化」の根本にあるのである。具体的な形もないし、シンボルとすべきものもない。つまり「無為」なのである。こうした中に五行の変化があり、四時(二十四時間)の推移がある。あらゆるところにこの理は存していて、あらゆるところに通じている。あらゆる物はこうした「道」によらないで存していはしない。「道」によらないで生み出されているものもない。つまり「無為」であっても為されないことはないのである。そうであるから「道は無為を常としており、それが行われないところは無い」とされている。つまり「無為」とは大いなる道の根本なのである。「行われないところは無い」とは、大いなる道の働きである。あらゆる物質は物であるから心は持っていない。そうであるから「無為」ということができる。しかし、それぞれの働きは持っている。これが「行われないところは無い」である。もし、人がこうしたことを修するなら、個人の根本的な徳(徳性)は、大いなる道と完全に一体となるのであろう。こうした「真常」の理は個々人の中に存している。他に求めるべきではない。
〈奥義伝開〉この世は簡単には自然の「無為」と、社会の「有為」で成り立っていると言うことができよう。自然現象は直接に人が操ることのできないものである。台風の起こることはどうすることもできない(無為)。しかし被害を防ぐことはできる(有為)。こうした「有為」を専ら進めて来たのが人類の文明の歴史であった。ただ老子はこうした「有為」の背後には「無為」が存しているとする。そして根本的には「有為」は永遠に存続できるものではないと教えている。台風であればその被害を防ぐのではなく、被害のないところに住むべきことを考えるべきと教えているわけである。武術であれば攻防に勝つ技術を磨くのではなく、攻防そのものが生じない自然な状態を維持する方法を考えるべきということになる。