宋常星『太上道徳経講義』(36ー7)
宋常星『太上道徳経講義』(36ー7)
柔は剛より優位にある。弱いのは強いより優位にある。
この一節は、まさに「反対」の働きを言うものである。一般的な「理」としては柔であることは、剛であることよりは不利であるとされる。弱いのは強いよりは不利である。しかし老子はここで「柔は剛より優位にある。弱いのは強いより優位にある」と言っている。その「理」はまさに「反対」というところにある。剛であり続けることが、長くなりすぎるとこれは崩れてしまう。それは強さでも同様である。柔をもって変化を促せば、剛も柔となる。弱さをして強いものを改めれば、それは次第に弱くなって行くことであろう。そうであるから「柔」や「弱」は「剛」うや「強」より優位にあるといえるのである。世の人は常に優位にあろうとする心を持っている。あるいは衆を頼んで少数者を抑圧しようとする。また強さによって弱者を押さえつけようとする。ごく少しのことでさえも他人に譲ろうとはしない。常に高い、低いを言って、自分が負けることを望まない。それは剛をして剛を制することであり、強をして強を害することになる。しかし剛が剛であり続けた例はない。強いものが強いままであったこともない。剛や強が永遠に続くと思うのは「理」に暗い、粗雑な考えといえよう。修行をする人は、言葉は柔和で、態度は細やかで、他人と論争をすることもなく、他人の軽重を語ることもしない。天地の中和の理を得て、聖人たる虚静の道を養っている。これがつまりは「微明」の士なのである。修行者はよくこれに努めなけらばならない。
〈奥義伝開〉これより当時の格言が三つ出される。第一は有名な柔が剛に勝つ、勝(まさ)るというもので、そこに老子は相反するものが含まれる「理」を読み取っている。ただ老子の考えからすると剛も柔より勝っていると同時に、剛は弱より優位にあるということも加えられなければならない。この格言だけではどうして柔が剛より優位にあるのかは分からない。老子の考えでは剛は柔へと変わり、柔は剛へと変化をするので、柔が剛より優位にあることがある、という理屈になる。これは一般的な考え方と同じである。柔のどこに剛があるのか。それは微か(微明)なるものとして存している。まが剛の柔も同じである。それを見出すことができれば柔は剛に勝つことができる訳である。