宋常星『太上道徳経講義』(36ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(36ー3)

あるものの弱さを知ろうとするなら、必ず強さが前提とされ(固)なければならない。

天地の道を観てみると、春や夏は「強」いとすることができる。秋や冬は「弱」いと言える。老若を観ると、若人は「強」く、老人は「弱」いと言える。人において観れば、力のある者は「強」く、無い者は「弱」いと言える。将来の「弱」さを知ろうとするならば、今は「強」さを知っておかなければならない。そうでなければ将来においての「弱」さを認識することはできない。そうであるから聖人は強弱をよく使い分けていた。人生の盛衰の理をよくわきまえていたのである。これはまさに「強」いと言うことができようが、それはあえて「強」さを用いていたというのではなく、自然とそうなったのである。聖人が自然に「強」くなっていたのは「弱」さによっているからで、つまりは「強」さを用いることができたからこそ「強」く居ることができているのである。こうした反対のものは常に現れるのであるから、「弱」い勢いであっても、それは一時のことであって、それが「強」く変じることは不変の「理」として常にあることなのである。ここで「あるものの弱さを知ろうとするなら、必ず強さが前提とされ(固)なければならない」とされているのは、こうした反対のことの生まれる理を述べたものなのである。道を修しようとする人は、強弱が反転する理をよく知って用いなければならない。今は「弱」さによっていても、先には必ず「強」くなるのである。そうでなければ、「強」さだけを好んでそれを固守しようとすることになりかない。真の「強」さを得ようとするのであれば、「弱」さを知らなければならないのである。


〈奥義伝開〉反転という現象が起こるのは周囲の環境が変化するからである。あらゆるものは変化をしている。つまり運動をしているわけで、そうであるなら変わらないものはない。変わるというのは反対のものに成って行くことである。この変化の思想は中国では普遍的にある。儒教で重視する「易」には「変化」という意味がある。革命思想もそうした中に生まれて来た。


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