宋常星『太上道徳経講義』(36ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(36ー2)

何かを収斂(キュウ)させようとするならば、必ず拡散(張)した状態が前提とされ(固)なければならない。

物事がまだ起こっていない時、それはまさにやろうとしていた時である。つまり物事の起ころうとしていた時である。これが「前提とする(固)」と言うことである。しかし、こうした前提を聖人は求めることはない(聖人は事前に何らかの思惑を持って考えたり行動することはなく、自然の必然性に応じて動く)し、大いなる道による行為においてそうしたことが求められもしない。運命の盛衰は、それに直面をして知ることができるだけであり、それがどう動くかを知ろうとしても、その方法はない。事前に何か確かなことを前提としようとしても、それは出来ないことなのである。何が起こり、何が為されるのか。そうしたことを前もって知ることはできない。ここに「何かを収斂(キュウ)させようとするならば、必ず拡散(張)した状態が前提とされ(固)なければならない」とあるのは、ある種の行為に関して、それを普遍的な天地の道の理に照らして述べようとしているのである。天地の道にあっては、特に何かを「収斂」させようとすることはない。また「拡散」させようとすることもない。ただ「収斂」させようとすることはないが、収斂ということは生じている。それは天地の働きによって起こっているだけで、天地がそれを行おうとしたのではない。そうであるから乾(天)の道は一つではない、とされるのであり、それは坤(地)の道と通じているのである。坤の道も「収斂」を行うのではないが、乾坤の道が感応することで坤(地)において生成の機を蔵する、つまり「収斂」を行う形になる。天地がこのようであるばかりではなく、あらゆる物事においてもこうした「収斂」と「拡散」の理を見ることができる。例えば蛟龍(こうりゅう。水に住む龍)は、冬には深い沢に沈んでいるが、春分を過ぎると天に昇って変じて、尺取り虫になるという。もし尺取り虫が体を曲げることができなかったら、伸ばすこともできないであろう。つまりここにも「収斂」と「拡散」と同じ理があるわけである。そうであるから天地のあらゆるところにこの理は存している。そうであるので聖人は天の道が「拡散」するのを見れば、次には「収斂」が起こるであろうことが分かるのである。つまり「拡散」が見られれば、次にはその勢いが尽きて必ず「収斂」が始まるからである。つまり勢いが行くところまで行けば、次には収まるということである。「拡散」にあっては万物が生まれ出る。そこには生成の理を見ることができる。「収斂」にあっては万物が収まって行くことになり、そこには再び再生(拡散)の理を見ることができる。天地の理と勢(働き)はこうしたことになるが、これらは全て人知を越えた自然において為されている。天地に何らかの意図があって行われることではない。また人にあっても、精神を「収斂」して、好き嫌いにとらわれることなく、その心を安定させて、その性(本来の自分の心のあり方)を養うべきである。静を得て、それをよく守るのも「収斂」である。それが得られると感情の発露(拡散)にあっても心が外的なものにとらわれることが無くなる(収斂)。これが「拡散」であり「収斂」である。ただ聖人のみがこうした陰陽を転倒させ、造化を逆転させることが出来るとされるが、これは「拡散」しようとする心を反対に「収斂」させることができるということでもある。そうであるから聖人は「善」なる行為のみを行うことができるのである。


〈奥義伝開〉ここでは「収斂」の中には「拡散」が含まれ、「収斂」には「拡散」が有されていることを老子は認識において述べている。一方、宋常星は現象において解釈している。つまり老子は「収斂」ということを認識しようとするのであれば「拡散」が前提として知られていなければならないとするのであるが、宋常星は「収斂」と「拡散」の循環の方を重視して説明をする。老子を理解する上で重要なことは「認識」と「現実」との関係性である。あらゆるものは変化、運動をしている。それをどのように「認識」して「判断」するのかは個々人によって異なる。一見して「収斂」しているようでも、長い目で見れば「拡散」していることもある。それは「拡散」の一部において生じていただけであることもあるわけである。老子は部分を見て本質を見失うことに警告を発している。


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