宋常星『太上道徳経講義』(35ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(35ー7)

(もし道が発生したならば)何を用い(用)ても、限定される(既)ことはない。

大いなるシンボルは、それを視覚的によって限定的に認識することはできないし、聴覚によっても知ることは不可能である。もし、よく大いなるシンボルを通して「道」を知ろうとするならば、それは全く限定されることのない「認識」となる。その大きさは無限であり、あらゆるところに及ぶのであって、細かいところも至らないところはない。それは大昔から遥かな未来にまで絶えることなく、天地にあって、万物を育てている。このように大いなるシンボルの働きは、あらゆるところに及んでいるのであり、それが存していないところはないのである。もし「道」を使うことができれば、それは全く限定されることのないものとなる。「限定される」とは限界があるということである。そうであるから、ここでは「限定される(既)ことはない」としている。道を修行する人は、聴覚によらないで、大いなるシンボルを知ることができることが分かっているであろうか。それは鏡が物を映し、秤が均衡を保っているようなもので、そこにあって明らかなことは、あらゆる存在が結局は「無」であるということである。そこには何ら限定的な法も存してはいない。心の「理」は、渾然としていて、限定された形を持つこともない。天地、万物は全て我が心の本質である「性」の空なるものとして存している。それが「(あらゆる存在が)名を持たない。天地の始めはそうであった」(第一章)ということであり、これこそが「静」的な状態において「道」の発生が予定されているが、いまだ現れていない(未発)状態、つまり大いなるシンボルが現れている状態なのである。大いなるシンボルが実際に事柄に応じて働く様子は、転がる珠に似ている。珠はいろいろな転がり方をするが、それは丸い珠のままで何ら変わりはない(つまりどのように転がっても変わることのない珠は「道」であり、右に転がり、左に転がるというのが「シンボル」となるわけである)。また「名を有するのは、万物の根源である」(第一章)とあるのは、「動」における大いなるシンボルの働きを言っている(つまりシンボルとして現れていないものに「道」を認めることはできないのである)。大いなるシンボルは、存在を「静」や「動」からとらえれば、こうしたことになる。こうした見方は、どのようなところでも用いることが可能である。それは、どのようなところにも「道」は働いているからであり、全く「限定される(既)ことはない」わけである。


〈奥義伝開〉この世に存しているものにはすべて「道」が働いていると老子は教えている。すべてのものに「道理」があるわけである。そうであるから何か超越的な力によって「道理」を越えようとするのは無意味なこととなる。当面はそうして自分の欲するものが得られたとしても、結局はその「矛盾」はどこかで解消されなければならないからである。そうしてみると物事の成功、失敗は一時的なことに過ぎないことが分かる。ここで重要なことは老子も強調する「一」ということで「全体」を基本とする視点である。人であれば「一生」ということになる。「生涯」を俯瞰する視点からすれば一時の成功、失敗に拘泥する必要のないことが分かる。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)