宋常星『太上道徳経講義』(35ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(35ー6)

(もし道が目に発生したならば)何かを視覚的に捉え(視)ても、その認識(見)にとらわれることはなく、

大いなるシンボルは、それを「道」ということを通さないで、ただ視覚的に捉えられたものだけで知ろうとしても充分ではなく、また聴覚的においてもそうしたことが言える。およそ声が発せられていれば、それを聴くことはできる。およそ音があれば、それを聴くことはできる。大いなる道は「虚無」であるので、そこには声も音もない。大いなる道の「声」や「音」を聴こうとするならば、自分の心で認識する(聞)より他にない。実際の声や音は限定的にしか発せられていない。そうしたものを大いなる道のものとして認識することはできない。そうであるから「何かを視覚的に捉え(視)ても、その認識(見)にとらわれることはなく」とあるのである。もし、心をしてよく認識することができれば、「道」の「声」や「音」を認識することができるのであり、それが聞こえないということはないのである。


〈奥義伝開〉聴覚に並んで視覚も人の心におおきな影響を与える。重要なことは表面的な現れとしてのシンボルを通して、普遍的な「道」を知ることにある。世間で「良い」とされるものに同調する必要は全く無いわけである。そうしたものはシンボルとして一時的に評価されるだけで、あらゆる存在は「道」の観点からすれば平等の価値しか持ち得ていない。ただ「自分」にとって有益、不益なものがあるだけである。これを知るにも「道」についての理解を深めなければならない。


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