宋常星『太上道徳経講義』(35ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(35ー5)

(もし道が耳に発生したならば)何かを聴覚的に捉え(聴)ても、その認識(聞)にとらわれることはなく、

大いなるシンボルを知ることは、ただ淡白であったり無味であったりする味覚だけのことではない。ある物を視ても、それにとらわれることがなくなるのである。およそ形を有する物で、それを視るとは、その形を視ることである。色を視るのも、その色を視るわけである。しかし、大いなる道には限定された形も色も存してはいない。そうであるから大いなる道によれば、ある物を視覚で捉えても(視)、それをそれとして限定的に認識する(見)ことはないのである。そうであるなら「何かを聴覚的に捉え(聴)ても、その認識(聞)にとらわれることはなく」とされているのであり、ここにおいて認識されるのは物事の本質(性)である。つまり「道」を見ているということであって、何も見ていないのではない。本質(性)ということを抜きにして「道」を語ることはできない。「道」ということを言わないで、大いなるシンボルを述べることはできない。つまり、大いなるシンボルが分かれば、よく物事の本質(性)を認識できるのであり、そうなれば「道」を知ることができる。つまり何を視ても「道」が認識できないということはないわけである。


〈奥義伝開〉視覚に並んで聴覚も人の感情に大きな影響を与える。プロパガンダで多く音楽が利用されるのはそのためである。また時々の流行歌が時代を反映しているというのも、その時代の人々の心のとらわれが反映しているからに他ならない。軍歌のようなものは為政者が意図して人々の心のあり方を変えるために作るものである。こうしたものも「道」のシンボルであるから、その奥にある「道」が分かっていたなら表面的なプロパガンダに踊らされることはなくなる。


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