宋常星『太上道徳経講義』(35ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(35ー4)

もし道が口に発生したならば、その味は淡白となり、無味となる。

大いなるシンボルとしての「道」は、世間一般の価値観で計り知ることのできないものである。「もし道が口に発生したならば、その味は淡白となり、無味となる」時の「味」とは「無味の味」である。「無味の味」は淡白ではあるが、「先天の造化」がそこには働いており、太極の本体が明らかに存している(ので素材そのままの味ということになる)。古から今に至るまで、その味は変わることなく淡白であることが知られている。つまり、大いなるシンボルが心に有れば、それは味覚にも作用するので、そこにおいて淡白であると感じられるわけである。天地の終始を知り、万物の法則を知り、生死の時を知る。鬼神はこうしたことの吉凶を告げるが、仙人にとっては、それらは全て「淡白」で「無味」なる事に過ぎない。それは全く世の人の感じる「味」とは異なっている。そうなると楽しみも、美味なる食事も何らの価値のないものとなる。そうしたことを「もし道が口に発生したならば、その味は淡白となり、無味となる」と言っているのである。


〈奥義伝開〉前に「楽しい食事」と訳したのは原文では「楽与餌」である。この「楽」は音楽のことであるから、より具体的には「音楽が奏でられているところでの楽しい食事」ということになる。聴覚的にも味覚的にも満たされるわけである。ただ、こうした「作られたもの」によらなければ満足できないというのは、本質である「道」を見失っているからであると老子は教える。老子は「樸」を重視する。つまり加工されていない状態を最も好ましいと考えるわけである。そうすると作られた「音楽」は自然の風や水の音に及ぶものではないし、食事も手間をあまりかけないようなものが良いということになる。ここで「淡白」「無味」とあるのは「樸」と同じ意味で、素材そのまま自然のままということである。


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