宋常星『太上道徳経講義』(35ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(35ー3)

楽しい食事が行われていれば、それに直接関係のない人でも足を止めてしまうものである。

【宋常星の読みに従えば「楽しい食事は、苦しい旅を続ける行商人のような人生において一夜の宿で味わえるだけのことに過ぎない」となる】

多くの人と宴会をする。これは楽しいことである。美味なるものを食べるのも得難いものである。行商をする人を「過客」という。「止」まるとは、宿を取ることで、これは通常ではない事態である。ここで老子は例えをして説いている。世の人は大いなるシンボルの働きと一体となり得てはいない。欲望に満ちた世の中に生まれて、苦しい旅を続ける行商人のようである。その人生はごく短く、その楽しみも久しいものではないのである。


〈奥義伝開〉宋常星は「楽しい食事」は短い人生の中のしかも一時のことであるから、それにとらわれるべきではないと解している。原文で「過客止」とあるところの「過客」は旅人の意であるので、宋常星は「止」を宿泊として「楽しい食事」と旅人の「一夜の宿り」を「短いもの」として、そうした楽しみは短い人生のしかも一時のことに過ぎないことに注意を促している。ただここでは「道」を外れた過度なもの(シンボル)にとらわれることの否定として読みたい。勿論、こうしたものにも「道」を見ることはできるのであるが、人々は往々にして、過度に楽しいものであれば、なおさらシンボルだけに気を取られてしまう。ただの食事ではなく、音楽が奏でられていたり、グルメなものが出されていたりする食事、そうした過度なものに「道」から外れた人は往々にして反応してしまうわけである。しかし「道」を体した人は次にあるように、そうしたものに殊更な関心を抱くことはないのである。


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