宋常星『太上道徳経講義』(35ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(35ー2)

大いなるシンボルということを分かって、天下に臨めば、そこには弊害の生まれることはなく、「安(安泰)」で「平(平安)」で「泰(泰平)」となる。

大いなるシンボルとは「道」の現れである。ただ「道」はシンボルそのものではない。そうであるなら、ここにある「大いなるシンボル」とはいったいどういうものなのであろうか。無極の本体は、これを「無」いとすることはできない。太極の働きも、これが「有」るとすることはできない。これらは「有」ると言うこともできないし、「無」いと言うこともできないのである。また「非存在(空)」とは限定できないし、「存在物(色)」と規定できるものでもない。それはあらゆる存在に関係していて、あらゆるところでその働きを表している。これは「シンボルなきシンボル」と言えよう。それがまさに「大いなるシンボル」なのである。もし、この「大いなるシンボル」の「理」を得て、自分の身に修したならば、その人は他人と区別のないものとなる。大いなるシンボルと一体となって国を治めれば天下は平安となり、全ては順調となる。あらゆるものは正しく働き、心は「空」となって、その「楼門」は四方八方に通じている。それはあらゆるところに大いなるシンボルの完全なる働きが及んでいるからである。如何なる時にも「理」から外れることなく、動静は適切で全ては大いなるシンボルのままになされている。つまり、全てのものは大いなるシンボルが基になっているわけなのである。そうであるなら、それを「害」せようとするものなど存することもない。そうであるから大いなるシンボルと一体であれば、民は苦しむことなく、政(まつりごと)は失敗することなく、圧政はなされず、戦争も起こされることはない。これらは全て「害」するものがないからである。天下に臨んで「害」するものがないならば、家、国、天下は自然に安泰(安)で平安(平)、泰平(泰)となり、すべての人が共に安らかに楽しむことのできる闊達な世の中となる。そうであるから大いなるシンボルを、我が身に用いることができたならば常に安らかでいることができる。以上からすれば「大いなるシンボルということが分かって」ということも明らかとなろう。そうであるから「大いなるシンボルを分かって、天下に臨めば、そこには弊害の生まれることはなく、『安(安泰)』で『平(平安)』で『泰(泰平)』となる」と述べられているのである。


〈奥義伝開〉大いなるシンボルを分かるというのは、それを通して道が体現されているということであるから、そうした人物が統治をすれば天下は争いのないものとなる。老子は「争い」は社会矛盾によって生まれるものと考えており、自然においてはそうした矛盾は存していないとする。それが生まれるのは自然を忘れた人間の過度の欲望にあるとするわけである。そうしたものを持たなければ自然に矛盾はなく、それを解消するための「摩擦」としての争いも生じなく成る。


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