宋常星『太上道徳経講義』(35ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(35ー1)

大いなるシンボル(大象)は、大いなる道(大道)の根本(体)とされる。大いなる道の働き(用)は、大いなるシンボルによってそれが示される。大いなるシンボルと大いなる道はその「名」は異なっているが、その「理」においては同じである。また無極は天地の始めであるとされ、太極は万物の母であるとされるが、混沌たる状態から天地が分かれて、万物が既に生じてしまっている状態にあっては、それらに何らかの「名」を付して言い表わそうとしても、その全て「名」をつけるとはできないし、その根本をというのであれば、それは「無名の樸(名を付することのできないあるがままのもの)」と言うしかない。もし、あらゆる存在の始めを言うならば「シンボルとしての「帝(かみ)」の先にあるもの(象帝の先)」(第四章)ということになろう。道を修する人が、もしよく「大いなるシンボルの奥義」を悟り得たならば、陰陽が盛んになったり衰えたりする「理」が分かるであろうから、古今東西のあらゆる存在の盛衰を、鬼神が吉凶を告げるが如くに知ることもできるであろうし、物事の終始も明らかにできるであろう。そうなれば三綱(君臣、父子、夫婦の道)においても大いなる義は明らかとなり、人の心も正され、邪な考えは排される。我が身を修める大本も、天下を治める優れた能力も、その根本は「一をもって貫かれている(ただ一つ)」(『論語』里仁篇)のである。ここで述べられているのはまさにそうしたことである。この章では大いなる道と大いなるシンボルのことが説かれているが、それらはつまりは無窮の存在なのである。


〈奥義伝開〉この世はいろいろな「法則」で出来ている。そうした「法則」を総称して「道」という。つまり「道」は唯一の法則をいうものではない。そのため「大いなる」という語を冠して「大道」とすることもある。こうした「道」の働きが具体的に現れたものが「象(シンボル)」である。水に熱を加えれば湯になるという「道」は沸騰するという「シンボル」によって示される。ここで宋常星は老子の「象帝の先」を引いているが、このフレーズのある第四章で述べられていることは、この章とほぼ変わらない。老子が「象帝の先」としているのは「道」のことであり、法則としての「道」と、その現れとしての「象」との関係を「象帝の先」では言っている。つまり「帝(かみ)」とは厳密には「神祀りの形」、つまり祭壇のことであるから、人はそうしたシンボルを通して神があると信ずる。しかし、実際にあるのは神ではなく道である。こうしたことは老子の時代の人も知らなかったし、現代でも神が居ると迷信している人が多い。老子はシンボルの先にあるものを知らなければならないと警鐘を鳴らしている。


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