宋常星『太上道徳経講義』(34ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(34ー7)

そうであるから聖人は、最終的に大いなる道を大いなるものであるとはしなかった。そのためによく大いなる道を実践できたのである。

これはまさに、広大で全てを備えている聖人の道を述べたものである。聖人は大いなる道の働き(用)として出現しているのであり、大いなる道は聖人の根本(体)である。つまり聖人と大いなる道は用と体の関係にあるのであって、それを偉大であるとすることもできよう。しかし聖人は通常は身を表すことが無いので、その名が知られることはない。また常に私を持つことはなく自分が主導して動くこともないので、偉大なことをなしたと知られることもない。偉大なことと認められるようなことはしていないと思って行う。それこそがまさに偉大なのである。名は知られていないけれど、これこそがあらゆるところに及ぶ程に「有名」となるのであり、永遠に廃れることはないのである。他人をどうこうしようとはしないけれども、相手は道理を外れるようなことをして来ることもない。誰であっても聖人の言うことを喜んで聞く。こうしたことが聖人の一般には分かり得ない偉大さなのである。天下の根本を立てて、天下の大いなる働き(用)をなす。そしてこの全ては「為さない」ということの中において行われる。こうしたことを実践していると、最終的には偉大なことをしようと意図しないで、偉大なことを為してしまうのである。道を学ぼうとする人は、よく性(本来の心の働き)のままにして命(本来の体の働き)を使うことができているであろうか。仁を持って義を行っているであろうか。自分一己の心をして、万物の性(本来の心の働き)とひとつになっているであろうか。自分の心はつまりは天地の心なのである。自分の性はつまりは万物の性なのである。天地は偉大であるが、我は天地と等しい。どうして天地のように偉大でないことがあろうか。


〈奥義伝開〉老子のいう「王」とは後世では「聖人」とされるものである。つまり「道」をそのままに実践した人である。「道」はこの世に普遍的に存しているが、往々にして人はそれがどのように働いているのかを知ることはできていない。それを知らしめたのが「聖人」であり、「王」なのである、。そうであるから「王」は政治権力を有する国王のようなものに限定して考える必要はない。文学や音楽などあらゆる分野で新たな「道」を示した人物は「王」とすることができる。太極拳の張三豊なども「王」のひとりと言えよう。張三豊により太極拳という「道」がこの世に具現化されて、それを通して我々は心身を「道」へとアプローチすることが容易となった。


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