宋常星『太上道徳経講義』(34ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(34ー6)

(大いなる道は)常に無欲であり、そこにあって「名」は小さいものとされる。万物は大いなる道に帰しているので、万物の中心となることはないが、その「名」は大きなものとなる。

至道の本質を考えてみるに、それを「小」さなものであるとか、「大」きなものであるとかすることはできない。もし、そうしたことで道を限定してしまうと道の全てを表すことができないからである。もし、ある事を「大」きな事としたら、その物は「小」さな事と見なされることはなくなってしまう。もしある物を「小」さな物としたならば、それは「大」きな物ではなくなってしまう。こうした「大」「小」は特定の事物に限定して用いられることはあるが、「道」そのものをいう時には適当ではない。ここで「常に」とあるのは、他からの影響を受けることがなく変わることがないためである。「無欲」とは至誠であり、迷うことがないということである。「万物は大いなる道に帰している」とは、あらゆる事物がその根本(つまり大いなる道)である道と関係しているためである。大いなる道は自分では「万物の中心」となることはない。それは大いなる道が至公、無私であるからである。至道の本質は無欲にある。そうでなければ他の影響を受けないで、そのままであることはあり得ない。変わることのない(真常)大いなる道でなければ、至誠で無妄であることはあり得ない。無私でなければ、万物の根源(である大いなる道)に還ることはあり得ない。そうでなければ、至道の永遠性(真常」)は保たれない。こうしたことからすれば、変わることのない(真常の)無私は、至誠、無妄であり、名声や社会的地位に拘泥することは全くなく、その功績の兆しをも表すことはない。道の本質は、小さくは、それを視認することができない程であっても、必ずそこに「道」は存している。そうであるから一般に知られんることがなくても「道」は存しているので「名は軽んじられている」わけである。そうであるから「常に無欲」なのである。名声を軽んじているので「万物の中心となることはない」わけである。この宇宙のあらゆるところに存していて、古今を通じて見られる、これが「道」である。「その名は広く知られている」のは「万物は大いなる道に帰しているので、万物の中心となることはない」ためである。「その名は広く知られている」とされるのは、本来的には広い狭いをいっているのではなく、強いて例えているのに過ぎないのであり、ここに至道の本質があるわけではない。つまり最大の狭さの中には、最大の広さが含まれているのである。最大の広さの中には、最大の狭さが存しているのである。名が狭くしか知られていないのは、そうであるとしても、それは狭いという限定を持たない狭さなのである。そこにおいては名を得る云々は超越されている。名が広く知られているといっても、それは広い狭いをいうのではなく、そうしたことを超越した広さを言っているのである。つまりは名ということにこだわってはいないということである。そうであるからその名は「小」さいとされることもないし、「大」きいとされることもない。有るともいえないし、無いともいえない。存しているともいえないし、存していないとすることもできない。運動しないのでもないし、するのでもない。これは言語をして表すことのできないことなのである。このように名にこだわりがなければ、名は特定の形を持たない存在ということになる。それが本来の存在のあり方なのである。無用の用こそ本当の用なのである。基本と応用は同じであり、大小にもこだわりがない。これが大いなる道なのである。一方に偏ってしまえばそれは至道の本質ではないということになる。


〈奥義伝開〉「名」とは名声であり、社会的な評価を得ることである。「道」そのものは「法則」に過ぎないので社会的な評価云々を気にすることのないことは勿論である。ここでイメージされているのは「道」を実践する人である。「道」を実践する人は「道」と一体となっているので、当然のことに社会的評価を気にすることはないが、最終的には評価をされるようになる、とするのが老子の考え方である。老子は第二十五章で「道」「天」「地」「王」を偉大なものとして挙げている。つまり真に「道」を体現して実践する人は自然に「王」となるとしているわけである。自分でそうするのではないが、自ずから社会の「中心となり、「大いなる名声」を得るようになるとするわけである。ただこうした「王」は原理的には存在が予定され得るが実際に現れたことはない。


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