宋常星『太上道徳経講義』(34ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(34ー5)

(大いなる道によれば)万物を愛し育てても、自分がやっていると思うことはない。

「愛し育てて」とは、例えば雨露が万物を潤すようなものであり、風や雷が万物を震わせるような広がりのあるものである。そうなるのは大いなる道が万物を「愛し育てて」いるからに他ならない。あらゆる気の働きは天において行われており、あらゆる物質の性質(質)は地に現れている。こうした気と物質の性質とが交わって、あらゆる物が生み出されている。これがまさに大いなる道が「育て」るということの意味なのである。大いなる道には「愛し育て」る働きがあるが、本来的には愛する心があるわけではないし、養おうとする心があるのでもない。「愛し育て」るのは無心で行われるのであり、決して心の働きをしてなされるのではない。そうであるから「万物を愛し育てても、自分がやっていると思うことはない」とされている。つまり「道」によって物は生まれているのであり、「道」は物によってそれぞれの働きを示している。物と「道」とは、少しの間も離れることはないのであり、物とは「道」であって、物のどこかに「道」があるのではない。何らかの意図をして「道」は物を生んだのではなく、自然にそうなったのである。「道」と物とは渾然一体で、それを分けることはできない。「道」のことをよく知ろうとするなら、こうしたところを理解していなければならない。


〈奥義伝開〉自然界における生成は何らかの意図をもって行われているのではない、と老子は考えている。道は「法則」であるからただそれによって生成が生じているに過ぎないのであり、そこに人格神的な存在を認めることはしていない。これが老子の考える「道」である。一定の温度になりれば水は氷結し、あるいは蒸発する、これが「道」であり、「水よ凍れ!」と祈ってもその現象が起こることはないのである。


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