宋常星『太上道徳経講義』(34ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(34ー4)

(大いなる道によれば)何かを成しても、名を(世間に)留めることはなく、

天地は「道」によって生まれている。万物も「道」によって成っている。つまり天地も万物も、すべては「道」から生まれているのである。これらは全て「道」の「成し」たことである。「道」はその成したことにこだわることはない。それはどのような物についても変わることはない。そして「道」は限りなく大きなことにも、またあらゆる小さなことにも入り込んでいる。どのような物でも何一つ「道」によらないで成り立っているものはないのである。こうした「道」が「名を留めることはない」とあるのは、どういうことであろうか。それは「道」には一定の形も、シンボルとすべきものもないということが前提とされるが、そうであるから「道」は物により、物に従って変化をしているのである。「道」の現れる兆しを捉えることはできないし、「道」そのものを得ることもできない。そうであるから何を成したのが「道」である、とすることもできないわけなのである。「道」が成したことを限定的にいうことはできないのである。そうであるから「何かを成しても、名を留めることはなく」とあるわけである。「道」の修行をする者は、利己的な心を捨てなければならない。自分が「成し」たことに執着する心を持ってはならない。それが「道」を体得するための近道である。


〈奥義伝開〉「道」は普遍的な存在であるので、個々の生成においてそこに殊更な「道」の働きが認められることはない。生成は普通になされているからである。実際に「道」を体現した人が何かを行っても、それは全く自然な行為として行われているので、それがどれほど大きなことであっても、人々に知られることがない、と老子はしている。武術でも百戦百勝した人が最強なのではなく、全く争うことがなかった武術家を最強とする考え方が中国にはあるが、それはここに見られるようなことによるもので、百戦百勝した武術家はたまたま全勝したのであって、もし百一回目の戦いをしたなら負けていたかもしれない。優れた武術家は「争い」といった自然には生じ得ない「危うさ」から逃れることができた人物なのである。


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