宋常星『太上道徳経講義』(34ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(34ー2)

大いなる道は普遍的な存在である(汎)ので、それは右にも左にも存している。

天地は物的には、大いなる存在の最大のものである。万物には大小がある。大きなものは小さくはないし、小さいものは大きくはない。日が左にあれば、月は右に出ている。左にあるものは右にあることはないし、右にあるものは左にあることはない。これらは一方があることで、反対のもうひとつが現れていわけである。こうした相対的な判断によって物的な世界は成り立っているが、大いなる道はそうした相対的な存在ではない。大いなる道は計り知れないもので、小さくもないし、大きくもない。左もないし、右もない。そこで意識されるのは無限であり、造化の働きの普遍性である。大いなる道は個々の存在と離れることはないが、それに限定されることもない。あえて個々の物に近づくこともないし、離れようとすることもない。有にも無にも偏ることなく、どのような相対的な関係においてそれを言うこともできない。道そのものは特別な存在ではないが、時機に応じての働きは無限である。大いなる道は、天地にあっては「道」とされるが、人の心にあっては「理」とされる。つまり「理」のあるところには「道」があるのであり、「道」のあるところには、つまりは「理」が存している。そうであるからどのような微かなところにも、あらゆる運動(一動一静)においても、飲食、起居にあっても、喜怒哀楽にあっても、すべてに「道」や「理」は存している。『中庸』には「道は少しの間も離れられるものではない」とあるが、離れられるようなものは「道」ではないのである。そうであるから「大いなる道は普遍的な存在である(汎)ので、それは右にも左にも存している」としているわけである。


〈奥義伝開〉ここでは「道」の普遍性が語られている。実際のところこの世の全てが一定の法則である「道」によって成り立っているのかどうかは分からないが、老子は「道」が普遍的に働いていると考えていた。これは「神」や「天」と同様にその存在を証明することはできない。信ずるかどうか、である。そうであるから普遍的な法則である「道」が存していないと考える人にとっては、老子の言うことは何ら価値のないものとなる。


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