宋常星『太上道徳経講義』(34ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(34ー1)

第二十五章には「道は大いなる存在であり、天も大いなる存在で、地も大いなる存在であって、王もまた大いなる存在である。この世にはこうした四つの大いなる存在があるが、その中で王を第一する」と述べられていた。この「四つの大いなる存在」というのは、量的に比類ない程、大きいなどというのではない。道の偉大さをいっているのである。これらは存在世界において働きを持っているものであるが、その中でも生成の働きを偉大なるものと認めているわけである。「生成」は無為自然をして、あらゆる存在の「妙」を集めてなされているものであり、根本(体)と働き(用)とが常に存している。それは終始一貫しており、生成は自然となされている。こうしたことを「大いなる」といっている。また「天」や「地」が大いなる存在であるというのは、そこにおいて「大いなる」ものつまり「道」が行われているからである。そこには万物を等しいものとする道が行われており、無為の造化がなされている。万物は自然に育ち変化をしていて、生まれるにしても自然に生まれているのであって、けっして何らかの意図がそこに存することはない。これが「大いなる」ということである。あるいは「王」についても天下、国家を統治しているから「大いなるもの」とするのではない。軍事的な強さを持っているから「大いなるもの」とするのでもない。こうした量的なものではなく、ここでいう「大いなるもの」とは天地の働きとしての「徳」と等しい存在であるからなのである。「道」は古今を通じて行われて来ており、その「徳」は万民が享受して来ている。そうであるから「道」は「大いなるもの」なのである。こうしたことからすれば、「四つの大いなる存在」は古今を通して変わることはないし、その働きはあらゆる時を通じて見ることのできるものでもある。それは虚であり、空であるからであり、あらゆるところに存在していて、過去から現在に至るまで、あるいは現在から未来まで「四つの大いなる存在」よりも偉大なものは無い。もし、そうしたものがあると妄言する人がいたなら、それは全て誤りということになる。異端というべきである。この章では聖人が「大いなる存在」にこだわらないからこそ、それは真に「大いなる存在」であることを示そうとしている。つまり「大いなる存在」とはあらゆるものを包含し、あらゆるところに存在して、あらゆる働きをなしているのであり、それによって天地の万物が存在し得ているようなものなのである。君臣や父子の関係性の根本もそこにある。よく「大いなる存在」についての認識を深め得たならば、すべての存在は自己の中にも等しく存していることが分かるであろう。大いなる存在である道に順じて、そのままに変化をする。これは特に何もしなくても、深い認識さえ得ることができれば、こうした聖人の心のあり方に通じることが可能となるのである。こうしたことから文中には「大いなる」という表現が多く用いられているのである。


〈奥義伝開〉ここで述べられているのは、この世界が一定の「法則=道」によっているのであれば、それに即した行為は「道」の実現として認められる、つまり社会的に評価されるはずであることを問題とする。それは現実には明らかに「道」外れた悪行を行う者が栄えていることを往々にして見ることがあるからである。こうした「道」の問題は古代中国は老子以外でも着目されていて、司馬遷のような歴史を広く知る人物はそうした働きは認められ無いとしている。また『易』でも「積善(せきぜん)の家には必ず余慶(よけい)あり」として善を積んだ人の家には必ず「余慶」があるという。「余」とは子孫に良いことがあるとするのであるから、つまりは本人には必ずしも良いことがあるとは限らないということである。老子も無為自然の生き方はすぐには評価されないが、必ず後世には評価される時が来るわけであると述べている。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)