宋常星『太上道徳経講義』(33ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー8)

死でも亡びない者は、命長い(寿)といえる。

人には生死があるが、これは全て心の働きである。人は生死については内的には安心を得たいと思うし、外的には何時までも生きていたいと思うものである。しかし余りに長生きをしたいと思ってしまうと人の本来的な心の働きである「性」が正しく働かなくなってしまう。そうなれば、心は安定を欠いてしまい、死んで「無」となることに心迷って、生きて「有」ることに執着をしてしまう。つまり迷いを信じて真実を見失ってしまうことになるのである。つまり生があれば、必ず死は来るのであり、最期の時が来れば、四肢は分解して、気は散じて、神は体から離れ出てしまう。そしてついにはあの世へと行くのである。こうしたことはまったく自分ではどうすることもできないことである。修行者は、よく「殺機転倒の妙」を悟り得ているであろうか。自ずから「殺機」を知って(知)、それがどのようなものかを悟って(明)いるであろうか。そうして「殺機」に勝つことができているであろうか。つまり自分の体と太虚とは一体であり、そうであるから命の長い(寿)ことは、天地と等しいのである。「殺機転倒」とは、「心」が死んで「神」が活きているような状態であると同時に、「心」が生きて「神」が死んでいる状態でもあるのである。これが「殺機転倒」の実態である。これが「殺機転倒」の逆修の妙なのである。つまり「性体」が虚霊で曇ることなく、真の心が開かれて常に大道と共に存していれば「寿(命長い)」ということになれるのである。「赤文洞古経」に依れば「天はその真を得ているので長く存している。地はその真を得ているので久しく存している。人はその真を得ているので寿(いのちなが)く存している」とあるが、これはここで述べたことと同じである。或いは「無というところに入れば、死も無いし、生も無い。天地と『一』つである」とも記されているが、これもここで述べていることと変わりはない。老子はここで「死」と言っているが、それは「妄心」を死なせるということであり、「亡びない」とあるのは、その「法性(大道=法と一体となった本来的な心の働き)」が亡びないということである。妄心が死ぬと、「法性」は自然と真常(大道)と一体となる。そうであるから昔の聖人は、死をして死とすることなく、道の悟りを得ないことを死としていたのである。そうであるから道を明らかにすることは、つまりは生を得るということになるわけである。大道を明らかにすることができたなら、この身は死したとしても、真性が死ぬことはない。形は亡びても、真我は亡びることはない。つまるところ人の法性は「不死不生」「不壊不滅」なのである。古も無く、今も無い。大いなるものを得て常に存している。その寿命を知ることはできないが、永遠なるものである。しかし、この肉体が不死なるもので永遠に生きるとしたら、長生きへの執着から離れることはできなくなってしまうことであろう。そうなれば、どうして生死の彼岸へと超越してしまうことができるであろうか。どうしてよく真実の大道(無漏の真常)と一体となることができるであろうか。「死でも亡びない者は、命長い(寿)といえる」とは以上のような意味である。

この章では、自ら知り(知)、自ら分かる(明)ことをして、自分を捨てる修行について述べられていた。個々人がそれぞれに自分へのこだわりを捨てて、その永遠なるところ(大道)を失わないようにするべきである。そうなれば、まさに「死でも亡びない者は、命長い(寿)といえる」ということになる。『老子』を読む者はこのように詳細に読み込まなければならない。そうしていれば文章の深い意味が分かることであろう。


〈奥義伝開〉ここでも言っていることは実は単純で、生命活動が停止しても、以前と変わらないままであれば、それは生きているということになる、というわけである。実際には「植物状態」のようなことがあったのであろう。古代には実際の葬儀を行う前に「殯(もがり)」という期間を長く設けていたが、仮死状態から蘇る人も少なくなかったのかもしれない。つまりそうした人は死んではいない、と老子は述べているわけで、本当に死んで体が腐敗を始めると人はもう死から蘇ることはないのである。そうであるから死後の世界を我々は知ることはできない。蘇って「死後の世界」を伝えている人は死んだ人ではないからである。


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