宋常星『太上道徳経講義』(33ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー7)

居る所を失うことがなければ、久しく居るということになる。

ゆっくりと休める所が安住の地である。もし、そうした場所が得られたならば、それは魚が水を得たり、鳥が巣を得たりしたのと同じで、暮らしやすいし、心身ともに快適である。これは、至善の地に住んでいる、とすることができる。至善の地であれば、虎の爪に傷つけられることもないし、一角獣の角に突かれることもない。軍隊に襲われることもない(『老子』第五十章)という「無死の地」とすることもできる。こうした「無死の地」はどうしたら長く保つことができるであろうか。或いは出家をして、あらゆる俗縁を断つことで出来るであろうか。「至道の真常」を守って、山林の中に住んで、清虚たらんと志せば良いのであろうか。或いは暗いうちから起きて来て香を焚き灯明を灯して、読経に勤めるべきであろうか。または儒教や道教の教典をよく読んで、それを極めると良いのであろうか。こうして人々が有為の功徳を積み、心身を修行に労するのは全て「至善の地」に逗まるためであり、それを失わないためである。こうして修行に一定の成果を得ることができたならば、人や天からの助けを受けることができる。そして次第にそれを深めて行き、天地と一体となれる。そうなれば永遠に「至善の地」を得ることができるであろう。もし、よくここに述べた四つのこと(出家をする。山林で修行をする。読経に勤める。教典を研究する)を行ったならば、それは「居る所を失うことがなければ、久しく居るということになる」ということになれるであろう。


〈奥義伝開〉ここでも老子は「ずっとひとつの所に居るのは『長く居る』ということである」と述べているに過ぎない。これは次の「不死」があり得ないことを述べるための前段とあんる説明である。次には「死んで亡びない」というやや分かりにくい設定になるので、どのような論理が展開されているのかを分かりやすくするために、長く居ることの例を先にあげている。このように老子は「当たり前のことを当たり前にする」ことこそが「道=道理」にかなった生き方であると教えているのである。


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