宋常星『太上道徳経講義』(33ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー5)

充分であると思って(知足)いる者は「富」んでいるとすることができる。

それぞれの境涯に応じて生きて、心の貪りの思いを抱くことがない。これが「知足」である。そうなれば人はあまり欲望にとらわれないでいられる。欲望に振り回されないでいられるわけである。たとえ貧乏をしていても、気持ちには余裕がある。たとえ生活は困窮していても、道にある人が困窮するということはない。道はどのような時でも休むことなく、とらわれることもなく働いている。そうであるから、道と一体となった人は常に足りないと観じることはなく、充分に「富」んでいると思っている。そうであるから「充分であると思って(知足)いる者は『富』んでいるとすることができる」とあるのである。どのような人であっても重要なことは、自分は充分に得ていると思うことである。社会を乱し、道から外れ、どのようにしても貪り、いくら富んでも不義を覚えている。そうなれば必ず災いが降りかかるであろう。どうして「知足」によって「富」むことができることを知らないのであろうか。修行者は、その「精」を保全し、「気」を保全し、「神」を保全している。これらをよく保全していれば、道の徳がおおいに身に付く。徳が盛んに行われるところには道が存している。この世の本当の富や本当の尊さにおいて精、気、神を十全に保全する以上のものはない。もし金玉が部屋に満ちていようとも、どうしてそうしたもので満足することができるであろうか。


〈奥義伝開〉ここで老子は、自分が富んでいると思える人が富んでいるのであって、あくまでそれは心の問題であるとする。第九章では、部屋一杯の金玉を持っていたとしても、それが何時盗まれるか心配でならないようであれば、その人は本当に富んでいると言えるのであろうか、との疑問を呈している。ここでも同様で、つまり物的なものはいくら求めても精神的な満足とは直結しないということである。


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