宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その5

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その5

「慧力」とは、心の光で自己の内面を照らすということであり、そこには智慧の光が常に点っていなければならない。内には穢をもたらす塵の生ずることもないし、滅することもない。外には穢をもたらす俗なる塵そのものを受けることがない。そうしたものを遠く離れて、本来的な認識作用である「識性」があらゆる世界を正しく認識している。それはひとつの「霊光」による「妙覚」ということができる。つまり全ては空であると悟るのであり、あらゆる存在が虚であることを悟るのである。道を学ぶ者で、もし「慧力」が生ずることなく、智慧の光を得ることができなかったならば、認識作用は穢れたものとなってしまい、そうなれば「有」とする認識も、「無」とする認識においても共に正しいものではなくなってしまう。こうした中で煩悩が出てしまったり、あるいは捨てたりといったことが正しい認識を経ることなく行われてしまう。まさにこうした時、認識作用は心によっているので、それが穢れて妄想が生まれてしまえば、意識が働いても正しい認識を得ることはできなくなってしまう。そうなるとあらゆる感情は乱れて、心は「魔物」にとらわれてしまうことになる。それは明るいところを避けて暗いところに入るようなものであり、けっして光明に輝く大道に入ることはできない。そうであるから「慧力」を使って修行者は自ずから勝つようにするべきなのである。

「智力」とは、智慧の光が滞りなく照らされるということである。そこには智慧の光が瞑想の中で現出することになるが、これには「大定」に入らなければならない。そうでなければ智慧の光が現れることはない。智慧の光が現れて、それによる認識(慧性)が得られることはないのである。そうなれば本来的な智慧(真智)も得ることはできない。この「智慧」の「智」とは真水のことであり、「慧」とは真火のことである。もし「智慧」の力、つまり真水や真火の力を使うことができれば、これは本来的に有している大道に通じる心の働き(真如の妙性)を開くことになる。道を学ぶ人は、はたしてよくこの「智力」を用いて迷いを絶ち、妄念を断じているであろうか。愚かさにとらわれることなく、執着から離れているであろうか。「智力」も「道力」も、どちらが優れているというものではない。

「道力」とは、大道の「体」と「用」とに働く力のことである。「道力」を使えば、一切の物欲から離れることができる。智慧の光は常に輝いて正しい認識を得ることもできるし、それによって「天地の始め」を知ることも可能である。そうして微細なところまで認識を及ぼせば「万物の母」を見ることも可能となる。大道と一体となる準備は整い、こうした中に大道へと入ることができるようになる。つまり奥義を知る修行者(修真の上士)となれるのである。常に大道による認識を有し、常に道心を持って、常に道力を有し、常に道身を修して、一動一静、道そのものの境地を離れることもない。現在、道を学んでいる人で「道力」をして自ずから勝ち、その実践を進めて止まない人が居るであろうか。


〈奥義伝開〉正しい認識を得るのが「慧力」で、それによる実践が「道力」となる。これは老子では「道」と「徳」として説かれている。「道」への認識が深まれば自ずから「道力」が生じて俗縁・俗塵などから逃れることも可能となる。まさそうした「道」の実践である「徳」を行っていると、より「道」への認識も深まって行く。そうなれば更により深く「徳」の実践もなされるようになるのである。


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