宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その4

 宋常星『太上道徳経講義』(33ー4)その4

「定力」があれば、心は乱れないし、邪な思いを意識することもない。雑念を生まない力が「定力」である。つまり瞑想(定)における種類は三つに分けることができる。一は妙定、二は円定、三は大定である。「妙定」とは「妙」を観じて定に入るということである。つまりこれは「真入」の観(大道と一体となった感覚を得た瞑想)ということになる。もし、念も自分をも共に忘れ得るそうした「妙処」を観じることができたなら、自然と乱れた心は澄んで行くことになる。これを「妙定」という。「円定」とは、欠けたところも、余分なところもなく、動き過ぎるところも、静か過ぎるところもない瞑想の境地で、山や川、大地などはすべて、こうした瞑想状態そのままを表している(定中の定体)といえる。どのような境地にあっても、一定の安定した瞑想状態があるが、「円定」では本来の捕らわれのない境地に入っている。こうした完全なる境地をして「円定」というわけである。「大定」とは、本来の心の働きと誤ったそれとを区別することなく、聖なるものも、俗なるものも等しくして、太虚無体の瞑想に入ることである。瞑想にあってはいかなるものにもとらわれることがない。これを「大定」という。これら三つは、世間から離脱した大聖でない聖と俗とを有している者にあっては、得ることのできない境地でもある。修行者は、感情にとらわれ過ぎることなく、欲望を断じて、心身を乱れさせることなければ、日々において神と気とがわずかではあるが一体となるようになって行く。こうした状態は瞑想に入る(入定)と称せられるが、本当は神と気とを共に忘れる境地のあることを知らなければならない。神と気の一体を感じている境地では、本当のとろをいまだ得ていないといえよう。そして、そうした状態は完全なる瞑想状態ということはできない。ここに「順」と「逆」の二つの境地がある。一つには触れたところに本来的な認識作用(識性)が生ずることである(順)。これは原因があって結果があるという因果関係によるものであり、意識や心の深いところに穢があるから(外的なものに反応してしまうの)である。こうしたところからすれば「妙定」「円定」「大定」の境地は、修行者が自分で自分でそれを得たとするべきなのであろう(逆)。ただ老子が、つとに教えているのは、大いなる安定ということである。これを後の修行者が成就して、将来的に大道と一体となる。こうした境地は西域の聖人(である達磨)が、経文で「シャマタ(止)」としているのと同じで、これは「大定」をいっているわけである。そうであるから一切の教えにおいて「大定」に入ることなくして、道を成すことはできない。修行者ははたしてよく自分の本来的な心の働きである「性」を安定させて心を自ずから清浄にし得ているであろうか。心が清らかになれば意識も自ずから静かなものとなる。意識が静かであれば自ずから意識の働きである神も安定する。神が安定すれば気は乱れることがない。気が乱れることがなければ体のエネルギーである精も円滑に働くようになる。精が円滑に働きようになると丹が結ばれる(心身の安定が得られる)。これが「金精」を「金室」に返すとされるものである(本来の心身の状態に復すること)。一粒の「明珠」(である悟りの境地)も瞑想によらなければ永遠に離れることない。それは瞑想による力(定力)によってのみ得られる。こうした教えを受けた者は、定力をして自ずから勝つことができたとすることができるのであり、このことはよく考えてみるべきであろう。


〈奥義伝開〉ここでは「定力」について述べられている。瞑想(定)の修行に「順」と「逆」のあることに触れているが、静坐は「逆」の修行であるとされている。ここにもあるように「順」の瞑想は因果関係によるもので、一定の教えを瞑想することでその境地を得ようとする。多くテクニックを用いる瞑想はこうしたものである。これに対して「逆」の修行はまったくそうしたものを用いない。ただ静かに坐るだけである。そうして自ずから得られた「善なる感覚」が大道によるものとするわけである。「善なる感覚」はそれを感得して人がそう感じれば良いのであって、それに特別の決まりがあるわけではない。


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