宋常星『太上道徳経講義』(30ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(30ー1)

三皇(伏羲、女媧、神農)の栄えた時代には、道をして民を教化していた。徳をもって治めていて天下に軍事を用いることの必要を無からしめた。策謀をめぐらす知恵を用いることなく、君主は君主の道を尽くし、臣下は臣下としての道を尽くしていた。父子、兄弟、夫婦、朋友、それぞれがそれぞれの道を尽くしていたのである。そして天下は「道」へと帰していて、人々は平和で楽しく暮らしていた。統治にあっては上下ともに無為であって、これも一なる「道」へと帰していた。つまり天下が一なる心でまとまっていたわけである。天下が一なる心でまとまっていれば、軍事の影を見ることもないし、そうであるから生活にも余裕が生まれる。戦争で名誉を得ることのない軍人は戦うことなくして、そのままで最強といえよう。こうした観点からすれば、戦わないでいられるのが、負けることのない最も強い軍隊ということになる。ここでは「不道」ということが言われている。例えば秦や漢、以来、統治と兵乱、得ることと失うことは同じではなくなった。それは全て「不道」によっているからである。「不道」とは力で他人に勝とうとするもので、天の道にも、人の道にも反している。そうなると強い者が弱い者を害することになる。こうしたところでは太古の純朴な気風に帰ることが求められるのであるが、それが実現されることはない。この章では「強い軍事力をして天下に臨まない」ということが重要であるとされている。もし強い軍事力をして天下に臨んだならば、これは「道」のよっているとはいえない。


〈奥義伝開〉老子は「力」によって拙速に物事を進めることを戒めている。そしてそこには奢りがあるとする。こうしたやり方の最たるものが戦争である。争って相手を制圧して思い通りに事を行おうとする。それは自然に反する行為であり、そこには矛盾が生まれる。そして矛盾を解消するためにまた武力が用いられる。つまり武力を持っている限りは永遠に戦争は終わらないわけである。老子は戦争を「不道」であるとする。つまり道理が分かっていないから戦争をしてしまう、という。もし人類の霊的進化というものがあって、さらに人々が「道=道理」を理解し、戦争の無意味さを知ったならば、その時にはあらゆる軍事行為は終息してしまうのかもしれない。


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