宋常星『太上道徳経講義』(31ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(31ー3)

物事において好ましくない物があるとすれば、道を得た者はそうした物には関わらない。

「軍事を好む」ということを、よく考えてみるに、それが「不祥の器(不幸を生み出す道具)」であることは明らかである。もし、これを用いるならば、敵味方が戦うことになり、騒乱状態が生まれ、人々の暮らしは不安定なものとなり、生きとし生けるものはひじょうな苦しみを受けることとなる。飛ぶ鳥は彼方に去り、走る獣も行方をくらましてしまうであろう。「物事において好ましくない物がある」とは、誰にあってもそうであろう。そうであるから「道を得た人」は決して「不幸を生み出す道具である軍事を好む者」を用いることはない。道徳をして民を教化するのであって、無為をして民を服さしめ、征服をせずと

も自ずから慕い寄ってくるようにさせる。戦うことなく服さしめるのである。そうしたところで、どうして「軍事を好む者」を用いる必要があろうか。「物事において好ましくない物があるとすれば、道を得た者はそうした物には関わらない。」とは、こうしたことを述べているのである。


〈奥義伝開〉道を得ている人であれば、自然に軍事に関わることはない、と老子は教えている。中国の武術は導引から生まれたとされる。それを象徴するのが少林寺の五獣拳である。五獣拳は「龍、蛇、虎、鶴、豹、猴」などから五つが選ばれているようであるが、本来が伝説であるので、それを細かに考察する必要もあるまい。こうした動物の動きを真似て活力を得ようとすることは古代の名医とされた華陀の五禽戯などにも見ることができる。動物の動きを模倣するシステムにおいては個々の動物の持つ「性」と「能」とを学ぶものとされる。これが少林寺の「洗髄」「易筋」の易筋にあたる修練となる。「性」は獰猛であるとか敏捷、巧妙などの性質を学ぶもので、これにより活力が得られる。「能」は跳躍力、柔軟性、敏捷性などで、これにより合理的な心身の使い方が会得される。こうした「性」や「能」を動物の動きを真似することで得ようとしたのであり、それが後には武術として展開されることになったというのが少林拳伝説である。ちなみに「洗髄」は「性」や「能」として具体的に現れたもののその奥にある「善」なる心身の働きを静坐によって悟ろうとするものである。


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