宋常星『太上道徳経講義』(30ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(30ー5)

物が「壮」にあるのに「老」へと至っている。これは「不道」と謂われる。「不道」とは「早(すみやか)」であるために言われているのである。

兵は強いて用いてはならない。物も盛んに用いられて(壮)はならない。天地の間にあって、一切の万物には、「生」があれば必ず「死」があるものである。「少」(年)があれば「壮」(年)が存することになる。「壮」(年)があれば「老」(年)も有るわけである。これらは物理の常といえよう。物の理とは、おおよそにおいてそうしたものである。そうであるから兵を用いることにおいても同様である。兵を用いる時には、敵味方が対陣をして、生死存亡をかけて争うが、ここにあって両者の関係は密接であるともいえる。もし「矜(おごる)」ことがなければ、つまりは自分も相手も「伐(そこなう)」ことはなくなる。結果として「矜(おごり)」をして相手を「伐(そこなう)」ことを思い、「驕(あざむく)」ことをして相手をだまそうとしようとする。強いて天下に兵を用いて、その勢いが頂点にまで行くと反動が生まれ、あまりにそれが過ぎると反対に自分を傷つけることにもなる。勝っても、その状態を維持することのできないようになるのである。強さとは、それを長く維持することはできない。つまり「物が『壮』であるのに『老』へと至っている」ということである。ここにおける「理」と物事の変化をする「勢」とは同時である。「これは『不道』と謂われている。『不道』とは『早(すみやか)』であるということである」とあるが、つまりは古より、聖人は道をして兵を用いていた。そうして天下に兵を用いたのである。いまだかつて「壮」は存したことはなく、いまだかつて「老」の存したこともない。そうであるからいまだかつて終わりというものもなかった。もしそうでなければ、「壮」を過ぎれば「老」へと至ることになる。それはどうしようもないことである。そうであるから老子はこうした超越した状態を「誠」としている。「不道」の兵とは、戒められるべきではあるが、世の人は「不道」をよく為すものである。これも戒められるべきであろう。加えて人のように肉身を持つ存在は、この世にあってはうたかたのようなものなのであり、長い人生の旅路も一瞬で終わってしまう。まだまだと思っていても、すぐにこの世を離れることになる。父母に別れを告げて、妻子との別れを迎える。愛別の思いを絶つこと、つまりこうした途切れることのない思いの中に「誠」が存している。途切れることのない心の働きの中に「道」が存している。聖人や賢者であっても、丘長春や劉処玄、譚処端、馬ギョク(金偏に玉)などの有名な仙人の生き方を学び得る者は少ない。無欲、無為で生死、性命の根元を求める人がいる。または各地を放浪して、自然の中に隠士を求める人も居る。あるいは朝に名山を訪れ、道の真を得る人も居る。または風光明媚な地に住んで精を練って気を養う人、または俗にあって俗に交わり、人に道を説いて悟りを得させる人も居る。他に朝夕に香を焚いて丁寧に経を唱える人、そして善なることを行って人々を救済する人など、いろいろな修行をする人が居る。しかし重要なことは真誠、合道の実践にある。長く修行をしていても、天帝や自然はそうした人の結果への責任を負ってはいない。自然はどのように修行の才能の無い者であっても、貪欲、好色であっても、遊び暮らしていても、天や空や海は広く、あちこちの山は高いのであり、終日終夜、道をして為政者を助けることはない。日常的に、もし強い兵を天下に用いようとするならば、それは全て「不道」によって行われるものである。これらは「不道」をして為されるもので、これを「名教の罪人」という。自ら前途を誤るものであり、自ら行ったことの結果を自分が受けることになる。聖人は世俗を越えている。天の道に還る自然の道においては「不道」を行えば身を滅ぼすのであり、それはどうすることもできない。ここまで書いていて、悲しみの涙が思わず出てきた。心が痛んで仕方がない。世間を捨てた人は、ことごとく直ぐに悟を得て、早々に愚かさを脱して生死の奥深い道(つまり道理)を知ることになる。そこにあっては超然としていて生涯、邪なところに陥ることもなく、永く真の道を得ることができる。


〈奥義伝開〉「物が「壮」にあるのに「老」へと至っている」の部分は一般的には「壮」であれば「老」へと至ると解する。宋常星もそのように読んでいるようであるから、宋常星の解説に合わせれば「物が壮であれば、つまりは老いるものである」ということになる。「壮」と「老」を「同時」と見るか「経過」と見るかの違いである。私見では「同時」と考える。「壮」から「老」への変化は自然のことであり、それをあえて「不道」とすることはできない。「不道」つまり自然でないのは「壮」であるのに早々に「老」となっている状態である。例えば不摂生をしていると壮年でも心身を病んで老年のように見えることがある。こうした状態は「不道」といわなければならない。「壮」から「老」は適切に移り行くべきで、それが早く来すぎるのも良くない。ここでは自然は自然のままであるべきとする老子の考えが述べれている。あえて戦争を起こして自然の流れを止めてはならない。あらゆるものは時が来れば滅びてしまう。それを延命させようとしても、あるいは早くに終わらせようとしても、それは意味のないこととなのである。


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