宋常星『太上道徳経講義』(30ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(30ー4)

こうして「善」なるものへ戻るわけである。自然においては、あえて「強」さを発揮することは必要ない。つまりは「矜(おごる)」ことなく、つまりは「伐(そこなう)」ことなく。つまりは「驕(あざむく)」ことなく、つまりは「やむを得ざる」ことだけを行う。これらが、つまりは「強」いることがないということである。

軍隊を用いることを考えるに、天下に軍事を用いることは少なくないものである。そして、そこにあるのは「善」であるか「不善」であるかだけである。「善」なる軍事は止む終えざる時に、そうした事態を受けて用いられるものである。こうした時の軍事は「善」でありる。つまりは強いて用いるものではない、巧みな使い方をするわけである。「つまりは」というのは、「結果として」強いてはしないということである。全体を俯瞰してそうせざるを得ない時にそうするということである。これを「つまりは」といっている。例えばろくでもない者が、君子に反乱を起こすと、民や国は害を受ける。行われるべきではないことが為されたからである。こうした状態にあることが「つまりは=結果として」である。このような場合には軍事によって、こうした者を打たなければならなくなる。しかし、こちらの兵が強くても、あえて相手を制圧しようとしてはならない。こちらが強ければ相手を制圧することはできるが、そうしたことをあえてしないのである。こうして止む終えないことだけに軍事を用いるのは、まさに天下の動きに応じて用いるのであり、天下を軍事をして治めようとするものではない。軍事的な強さによって戒められるのは天下ではなく軍事を用いる者でなければならない。そうであるからここに「善」なるものとして「つまりは『やむを得ざる』もの」とあるのである。そうであるから「善」く軍事を用いる者は、あえて強さを求めてはならない。そしてやむを得ざる時だけに一つの方法として軍事を用いる。そうした時にも一には「矜(おごる)」ことがなく、二には「伐(そこなう)」ことがなく、三には「驕(あざむく)」ことがなく、四には「やむを得ざる」時だけに軍事を用いるのである。「つまりは『矜(おごる)』ことなく」とは、自分を低く考えて兵を用いることである。あえて自らの軍隊を誇って相手を見下すようなことがあってはならないのである。「つまりは「伐(そこなう)」ことなく」とは、他人を先に立てて自らは後に立つことである。こうして慎みをもって兵を用いるのであり、殊更に自軍の有能さを誇ってはない。「つまりは『驕(あざむく)』ことなく」とは、社会の動きに順じて動くということで、あえて力を頼んで兵を用いることがあってはならないということである。「つまりは『やむを得ざる』ことだけ」とは、兵を用いる時に、あえて勝を求めることをしないということで、強いて勝を求めないことである。必ず兵はやむを得ざる時だけに用いるべきである。これら四つは、全てあえてしない、強いて行わないというものである。そうであるから「つまりは『矜(おごる)』ことなく、つまりは『伐(そこなう)』ことなく。つまりは『驕(あざむく)』ことなく、つまりは『やむを得ざる』ものだけ」とあるのである。


〈奥義伝開〉自然な状態、善なる状態とはどのようなものとなるかが具体的に説明される。それは「矜(おごる)」ことなく、「伐(そこなう)」ことなく。「驕(あざむく)」ことのないことで、ただ「やむを得ざる」ことだけを行うものとされている。「やむを得ざる」の行為とは無為自然の行為である。自らが意図するのではなく、必然的に生じた為さねばならない事だけを為すのである。「強」いて行わないというのも同様であり、人為をもって余計なことをしないのが大切で自然のままであれば良いのである。


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