宋常星『太上道徳経講義』(30ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(30ー2)

「道」によって為政者を助けるのは、強い軍事力ではない。それは(自然に)還ることを良しとすることである。

これは、まさに当時、老子が兵を用いることが道に反していると、天下を戒めたものとすることができる。「為政者」は実際に政治を取る者であるが、また個人にあっては「心」がそれであるとすることができる。国には「君」があるように、人には「心」がある。そうであるから「君」が正しくあれば国は治まるし、「心」が正しくあれば身を修めることができるであろう。これは自然の理でもある。「君」が正しいのはそれが道にあるからである。「心」が正しいのもそれが道にあるからである。そうであるからよく為政者を助けるものは、道であることが分かる。つまり道こそが為政者を助けるものなのである。そうなれば天下は泰平で、人には戦争による死傷の憂いもなくなる。およそ天下に存するものにあって道へと帰一しないものなどはない。もし強い軍事力で天下に臨むならば、おおいに天地の和が失われてしまうことであろう。民は塗炭の苦しみにあえぐことであろうし、天下は乱れることになろう。天の道にあって軍事力がそれを補完することは決してない。「還ることを良しとする」とあるが、それにはそのための適切な還るべき理がある。「還ることを良しとする」とは、もし自分が軍事的な力で相手に対したならば、相手もまた軍事的な力で対抗して来るであろう。こうしたこともまた自然な帰結であるので、これもまた「還ることを良しとする」ということになる。つまり「『道』によって為政者を助けるのは、強い軍事力ではない。それは(自然に)還ることを良しとすることである。」ということなのである。道を修する者は、あるいは情欲をして「性」という天下を乱すことになる。無明をして心に「武器」を持つことになる。これがつまりは「助けるのは、強い軍事力」ということなのである。つまり、このような「軍事力=欲望や無明」をしては「為政者=自分自身」を助けることなどできないわけである。認識作用が正しく働かなければ、あらゆる「悪魔=正しくない認識」が襲来することとなる。本来あるべき自分の心の働きである「性」という天下は、一日も安静では居られない。心にある主人は、一時も自在であることはかなわない。これではどうして「還るを良しとする」ということになろうか。要するに「道の法」も「俗世の法」も等しく道によっているのである。


〈奥義伝開〉「還ることを良しとする」とは、原因があって当然の帰結に至るということで、それは「自然」の働きとしての帰結である。人は生きていれば「道」へと帰るのが当然であるが、そこに欲望などがあると、「道」へと帰ることを妨げてしまう。「道」とは自然の道理のことである。為政者に軍事力が求められるのは国家というものが本来的に「自然」ではないからに他ならない。自然でない国家が存在する以上、自然でない軍事力は必然として求められる。もし生活がたいして変わらないのであれば、今と同じくA国の統治を受けようが、侵略して来たB国統治を受けようが一般の人にとっては変わりのないことになる。これでおおきな被害を受けるのは現在の「収奪者」に過ぎない。あえて収奪者のプロパガンダに乗せれれて自分の命を「国家=収奪者」のために捨てる必要性は本来は無いわけである。


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