宋常星『太上道徳経講義』(29ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(29ー5)

つまり聖人は極端なことを排し、奢りを捨てて、自分を見失うようなこともない。

ここに挙げられている甚だしいことを排して、奢りを捨て、自分を見失うようなことにもとらわれないというのは、誤った考えによる誤った行動は「自然の道」ではないからである。つまり「自然の道」に外れたことを甚だしいというのであり、それは真の誠の実践されていない、節操のないことである。節操の無いのを奢りというのであって、自分というものの範疇に安住することがない。そうしたことを自分を見失うというのであって、聖人はこのような自分に甘く対し過ぎることはないし、厳しく接し過ぎることもない。慎みをして良しとしており、よけいなことを語ることもない。つまり、これが甚だしいことを排するということなのである。至誠を守り、浮ついたことを望むことなく、真の道のままに欲望にとらわれることがない。これがつまりは奢りを捨てるということである。行動は穏当で、発言も穏やかで、天の命の理のままで、人情に違うことなく、自分を見失うようなことはないということである。聖人はこうした極端であったり、奢っていたり、自分を見失ったりすることはない。先ずは自己を修練して、そして天下を治める。そうであるから天下の統治は、それが意図したとらわれによって行われるのではない。自然の道に順じて、天下は自ずからその道へと帰することになる。特に天下を取ろうとも思わないし、統治をしようともしない。そうであるから失敗をする憂いも全くないのである。


〈奥義伝開〉最後に「自然の道」とは過度に渡らない行動を取ることであると老子は教えている。適切と言っても何が適切か、判断が難しいが、そのひとつの基準となるのが過度に渡らない、ということである。少し足りないくらいが丁度良い、というわけである。どのようなことも、それを求めすぎてはならない。


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