宋常星『太上道徳経講義』(29ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(29ー4)

そうであるから行うべきを行い、従うべきには従い、息を吸うべき時には吐き、吐くべき時には吐く。強いて行うべき時には強いて行い、引くべき時には引き、満たすべきは満たし、損なうべきは損なうのである。

ただ天下を取るということだけではなく「自然の道」はあらゆるところに存している。そうであるから道に外れた無闇な行動をしてはならない。無理な行いをしてはならないのである。もし「自然の道」に逆らうようなことがあれば、それは我欲を行うことであり、その結果は必ず付いてくる。我欲が盛んであればそれを「吸」い、その活動が乏しい時にはそこに息を「吐」いて(吹きかけて)活性化させるであろう。また我欲をたのむところが「強」ければ、それを「引」き倒そうとする者に襲われることにもなろう。我欲が「満」たされれば、必ずそれは「損」なわれることになろう。これらは全てその勢いのなすところで免れ得ざるものである。そうであるから有為は自然の道ではないのである。ためにそれに害せれられるのである。無欲、無為で自然の道に順じる。それは吸えば必ず吐くのと同じであるし、強いたならば必ず引かなければならないのと等しい。満たされれば必ず損なわれることになるのであり、欲望によって為そうとしても、執着をしてその勢いのままにしようとしても、けっしてそれは成功することはない。また行っても、また従っても、吸っても、吐いても、強いても、引いても、満たされても、損なわれても全ては自然の道で等しいことなのである。


〈奥義伝開〉「自然の道」とは適切な行動を取ることであるとされる。それが具体的にはどのようなことなのかを知ることは難しい。その時、その時で考えて行動するより他あるまい。こうした場合に人は何らかの「規範」を求めたがるものである。それが典型的に現れている(絶対的に価値のある規範として示されている)のが宗教である。ひとつの「規範」を盲信することで心の安寧を得ようとするわけである。確かにそれはあるいは安らかに暮らすための知恵であるかもしれないが、盲信は結局は「自然の道」ではないので、最終的には破綻する以外にはない。


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