宋常星『太上道徳経講義』(29ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(29ー3)

天下は「神器」である。意図的に用いるべきではない。もし意図的にそれを用いれば失敗してしまうことであろう。もし意図して得ようとすれば失ってしまうであろう。

聖人がこの世にあれば、天下はすべて聖人に帰することとなろう。聖人は天下を取ろうなどとはしないが、そうなる。意図して天下を取ろうとするのは自然の道ではないし、それでは「神器」を保つことなどできはしない。「神器」とは、天子は人民を慈しむというあたりまえのあるべきことの象徴である。つまり、こうした正しいあり方を実行するように天より命じられたり、(例えば王朝の交代のように)天が実行者を改めたりする天の行いを代わって(次に予定された)天子が行う。そうしたところに「神器」の卓越した働きがある。例えば三皇(伏羲、女媧、神農)は至聖であるので、(争うことなく)天下を受け継いで聖なる統治を行ったが、それらは全て天の正しい命を受けてなされたことであった。また五帝(黄帝、顓頊、帝嚳、唐堯、虞舜)が帝位を譲り渡した賢明なる行為も全て天の命を正しく受けて行われたことなのであった。周の湯王は殷の桀王を南巣(安徽省巣県)へと追いやった。武王は紂王を朝歌(衛の首都)に討伐した。これらは全て天が命を改めたことによっている。五伯(斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の闔閭、越の勾践)は尊い王として、その虚名をして君臨していた。そして互いに奪い争ったが、これもまた天の命を受けてのことであった。こうした天からの正しい命を受けて統治したり、それにより統治者が代わったりするのは、全て「神器」の主とするところなのである。つまり無道から有道へと帰するのもまた「神器」の優れた働きなのであって、よく人の力の及ぶところではない。そうであるから天下の「神器」は「意図的に用いるべきではない」とされている。「神器」が意図的に用いられるべきものでないなら、それは天に順じ、人に応じるものとなろう。しかし、もしそれらが意図的に為されることがあったとしたなら、それは日々にその働きを見ることができるであろう。そこには強いところや弱いところが生まれよう。そうなれば強い者は弱いものから略奪をして、強い者は弱い者を侮ることにもなろう。離合集散の生まれるのである。こうして天下を治めようとしても、失敗することは確実である。これらは全て自然の道ではない。そうであるから失敗をしてしまうのである。天下を取ろうとして必ず失敗するだけではなく、もし天下を取ったとしてもそれを維持することはできない。維持するとは固執するということである。ただそのままであろうとする行為は、行うべき時に行うべきことをすることなのであって、意図して行うべきことではない。天の時に違うことを「逆天」という。人の行うべきことに違うことを「逆人」という。「逆天」とは、行うべき時に行わないことであり、「逆人」であれば不適切な関係を結ぶこととなって人々は不和となる。こうした執着は、自然の道ではないのであり、必ず失敗してしまうことになる。そうであるから「得ようとすれば失ってしまう」とあるのである。大道の本体は清浄、湛寂でどのような人であっても、それをただ有為の行為の中に求めることができるのであり、無為の行為の中に求めることはできない。つまり意図して自分が良くありたいと思って何かをしても、かえってそれは自分を傷つけ、道に反することになってしまう。こうしたことは全て自分の守るべき清浄無為の「神器」ではない。無闇な妄執によるものである。そうであるからそうした行為には自分を傷つけ道を失う危険があるのである。


〈奥義伝開〉孫文は「天下は公のものである」としたが、それは老子の天下を「神器」と見なすことにも通じていよう。政治システムとしてそれを実現するには皇帝などの独裁による統治では実現できないことは歴史的に証明されている。古代中国では「聖なる皇帝」が出て来れば独裁政治でも、万民に等しく利益をもたらす政治が行われると考えていたが、「聖なる皇帝」は出現することがないことも歴史が証明してしまった。そこで民主主義が考案されて、為政者を「公僕」とすることで人々に等しく富が分配され得ると考えたが、やはり民主的とされるプロセスで選ばれた為政者が収奪を行うことに変わりはなかった。共産主義は理想としては良かったが、現在のところ人は必ずしも万民平等では満足しないため、それを実行することは不可能であった。ただ民主主義もいまだ「神器」としての「天下」を運営するシステムとしては不十分である。更なる研究が必要であろう。


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