宋常星『太上道徳経講義』(27ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(27ー4)
「善」なる計画においては謀(はかりごと 籌策)を用いることはない。
「籌(ちゅう)」とは計略を考えることである。「策」とは書付る物のことである。計略を考えなければその詳細を知ることもできないし、計略を記すものがなければその詳細を深く考えることもできない。しかし聖人はそうしたものを要しない。聖人の道は一貫している。聖人の心は無為の心である。聖人は一貫の道をして天下に用いるのであり、そうなればあらゆることが自然と分かって来る。無為を心として、それを天下に用いれば、あらゆる事の理は、何もしないでも自然に得られる。そうであるから聖人は道の理のまま動いているのであり、そこにあるのは自然の理や無為の働きそのままである。それは計略をしようとしてもし尽くせるものではないし、考えて他の道を取ることもできない。何もしないでもあらゆることが分かり、始めから終わりまですべてを見通している。そうであるからどうして策略を用いる必要があるであろうか。そうしたことを「『善』なる計画には謀(はかりごと 籌策)を用いることはない」と述べているのである。何時の時代であっても、よくよく心を尽くせば、それなりの名案も生まれて来るであろう。また重さを知るのに細かな単位を設ければ便利かもしれない。しかし結局は細かに単位を作るとしても限界があるし、細かなことまで決めるののも同様である。そうであるなら苦労して詳細を考えることと、自然のままの「善なる計画」とどちらが良いであろうか。
〈奥義伝開〉ここでは「善」は、予め細かに計画を立てて行うようなものではないことが述べられている。つまり「善」の実践は場合に応じて様々な対応の出来る状態でなされなければならないことが示されているわけである。それは自然というものが常に変化、運動をしているからである。つまり「善」なる計画は、実質的には計画そのものが必要のない、無為において為されることが、ここに教えられている。そうした「善」は我々の日々の生活において途切れることなく、あらゆる場面で実践されている。人も「自然」の動きのままに生きている。そうであるから本来的にはその行為は「善」なるものなのである。