宋常星『太上道徳経講義』(27ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(27ー1)

大いなる技(大方)とは特定の「技=方」をいうものではない。大いなる同一(大同)は特定の形をいうものではない。大いなる技は特定の技ではなく、それは過去にも未来にも限定されるものではないし、遠近や大小にも限定されることなく、それを限ることはできない。大いなる用法とは特定の用い方ではなく、あらゆる物事に体して適切に振る舞えるということである。それぞれに適切に対することができるわけである。しかし、その働きは顕著に認めることはできないし、それがどのように用いられたのか、その「迹(あと)」を知ることもできない。人は「一(完全であるシステム)」なる身であるから、天地の道を体している。「一」なる心を持っているので万物の理を備えている。それはそのようにしようとするのではなくそのまま有されている。それを開こうとしても開かれるものはなく、それを閉じようとしても閉じられるものでもない。それはどのようにしようとしてもどうすることもできず、結ぼうとして結べることなく、解こうとして解けるものではない。こうした奥深い「善」という視点から人というものを考えると、人には不適切なところは全くないことになる。物にあっても適当でないものはないことになる。「善」が働いていれば己をよく治めることができるし、他人をもよく治めることができる。「善」を用いれば善人となるが、それは己を善くするということでもある。そうした「善」の働きの個々を明らかに知ろうと(明)しても、それは限りのないものとなり、その限界を人はよく理解することはてきない。私的な欲に溺れることがなければ、「善」の大いなる働き(用)が、特定の働きとして限定することができないものであることが分かるであろう。つまり「善」の働きである大いなる「方」は、大いなる「方」そのままであり、それ以上でも以下でもないのである。この章では五つの「善」を明らかにしている。それは「善」が人を救い、物を救うのに最も適したものであることを教えている。


〈奥義伝開〉ここでは老子の説く「善」を実践する場合の特徴点が述べられ、それが「善」の説明にもなっている。次いで老子の時代に常用されていたと思われる「襲明」と「要妙」の語を「善」の立場から解釈し直す。こうした常用苦句へ独特な解釈を施すことは外でも老子はよく行っている。ちなみに「善」を実践する上での五つの特徴点とは「過不足なくなされる」「誤ったことがなされることはない」「計画して行われるのではない」「必要のないことはなされない」「合理的な考えをもって行われる」である。また老子の説く「善」は善悪の「善」ではない。「善」は自然の働きであり、それは普遍的に働いている。しかし、いろいろな要因によって不十分なところもある。これが「不善」なるところで、この世にあるのは「善」と「不善」だけである。そうであるからあらゆるものは、すべて「善」なる存在であり、平等に存しているわけである。


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