宋常星『太上道徳経講義』(26ー7)
宋常星『太上道徳経講義』(26ー7)
「軽」であればつまりは「臣」を失う。「躁」であれば「君」を失う。
肉体はすべからく「身=全身」にあっては「臣」となる。そして「臣」は「君(精神)」を助けるものであるので、「君」を失うことはできない。また欲望を節することなく、危険を省みることがなければ、それは自分を軽くしていることになる。自分を軽くしていれば当然のことながら「臣(肉体)」を失うことになる。例えば国の君が自重することがなければ、臣下は礼をもって君に接することはなくなり、あらゆる人々の心は君を離れ、その徳は失われる。そうであるか「『軽』であればつまりは『臣』を失う」とあるのである。本来、体は「中=中庸」にある。これが「一」なる身の「君」である。「君」は肉体を主宰しているのであるから、それを失ってはならない。時に急いで事を行い、焦ってなんとかしようとする。こうしたことをしてしまうのは、物事の順序が順を追って為されて行くものであることを知らないからである。こうしたことが「躁」であるということになる。「躁」であれば必ず「君」を失うことになる。それは国君が自ら静を守ることができず、つまり「中」の局地に立つことができないのであれば、王宮を建ててそこでわずかに儀式を行ったりして王のまねごとをしたりするに過ぎないこととなる。そうであるから「『躁』であらば『君』を失う」とある。修行ということにおいてもこれは変わることはない。「君」としての心が安定していれば、根本である肉体が不安定になることはない。もし意識(神)が乱れれば、我が身の主人公である心は、必ず「中」を離れ、我が身も必ず乱れてしまうことになろう。我が身の「百官」たるいろいろな器官は、その「君」である心を欺こうとして、我が身である「国」を乱れさせ民を危うくさせる。そうなると我が身である「天下」も失われてしまうことになる。「軽」「躁」であれば、どうしても「重」や「静」であることはできないのである。
〈奥義伝開〉「万乗の君」は自分では自分を自重していると思っているが、これを社会的に見たならばその身を「軽」くしていることになる(本来、「重」や「静」をして身を処している人は大国の王になろとはしない)。そうなると臣下は離れて行くし、自身が「軽=軽薄」なのであるから、その行動は常に争いの中にある「躁」となる。そうなれば人心を失い、君主たる地位を保つこともできなくなる。そうであるから「王」は最後には必ず滅んでしまうわけである。「王」は自らを「重=自重」しており「静=和平」を大切にするように振る舞うが、それは見せかけに過ぎない。それをよく見極めなければならないと老子は教えている。