宋常星『太上道徳経講義』(26ー6)
宋常星『太上道徳経講義』(26ー6)
いかなる大国の王(万乗の主)も、自分の身より天下を軽いと見なしている。
「いかなる」とは感嘆を込めた表現で、大国の王は漏れることなく、ということを強調している。つまり王は「重は軽の根」であり「静は躁の君」であることを知っているのであり、それを「重」んじることで大国を維持し、「静」であることで国を守っているわけである。つまり「道」を「至重」として、これを軽んじていないのであり、「徳」を「至静」として躁であることを戒めている。そうであるから我が身より天下を軽んじて重きをなすことがないようにしている。我が身より天下を軽んじて社会のとらわれから脱すれば、我が身が害されることもなくなる。人生をよく考えてみるに、人生と天理とは一体となっている。三宝(精、気、神)はこの身にあって、貴いこと限りないので、我が身を大国とすることができるであろう(し、その主である我は大王ということになる)。もし我の気を大事にしないで、我が身の形を大切にせず、我が命を重んじ、我が神を愛することがなければ、自ら滅んでしまうことになろう。つまり天下よりも自分の身を軽んずることはないということである。修行者はこのところをよく考えてみなければなるまい。
〈奥義伝開〉ここでの本文は「身軽天下」とあるが、これには「身は天下を軽んずる」とすると読むのが一般的である。しかし馬王堆漢墓から出土した古いテキストでは「身軽於天下」とあり、「身を天下において軽んず」とある。つまり身を天下というフィールドにおいて軽く扱っているということである。個人的には後者の方が適切であると考える。つまり「万乗の主」である大軍を有する大国の国主は、いうならば「覇王」であり、こうした大王はもちろん贅沢豪奢を極める生活をしていて、自分を何よりも大切に思っている。しかし社会全体(天下)からすれば実はそうではない、と老子は教えているわけである。こうした大王自身は実は世の道理である「道」を知らない「軽=軽薄」な存在であるとする。そうであるからいかなる大国も遂には滅びて行くことになる。これが次に「軽」であれば臣下を失うというところに通じて来る。「軽」はまた落ち着きのない「躁」でもある。絶えず争いをして「躁(さわい)」でいるのは「軽」であるからに他ならない。権力者とはいづれもこうした存在なのである。一見して「重」や「静」を得ているように見えても、あるいは自分ではそう思っていても実際はそうではないのである。