宋常星『太上道徳経講義』(26ー5)
宋常星『太上道徳経講義』(26ー5)
どんな立派な建物(栄観)があっても、清閑な場所に超然として居る。
これは天下を治める者はまさに無為で静かにあらねばならないことを言っている。「栄観」は派手な物欲を象徴しており、音楽や色事、金銭などの欲望のことである。人は皆こうした「世間の味」を争って得ようとして、大波、小波の人生を送っている。しかし、君子はひとり超然としている。世俗から離れて清らかで、とらわれのない究極的な境地に居る。自然の時の流れのまま、自然の理に準じていて、物欲に支配されることもない。欲望に引かれて盲動することもない。それは清らかな風の中に名月を見るようであり、常に安らかで居る。「清閑な場所に超然として居る」とはこうした意味である。修行者は、はたして富貴にあって、それにとらわれることなくして居られるであろうか。極貧にあって、それにとらわれることなく居られるであろうか。もし、こうしたとらわれから脱していないのであれば、それは超然とした君子たり得ていないということになる。
〈奥義伝開〉「重」や「静」による生活とは、世俗は離れた清閑なところに超然として居ることであることが示されている。「超然」としているのであれば、立派な建物である「栄観」に住んでも構わないように思うが、やはりそうしたものよりは自然の中の清閑なところが好まれる。中国では山の中の一軒家で一人、本を読んでいるような絵が多く描かれて文人墨客とされるような人たちの憧れであった。