宋常星『太上道徳経講義』(26ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(26ー4)

つまり優れた人(君子)は終日、こうしたこと(「重」や「静」)を実践しているのであり、輜重(しちょう 軍需用物資)を離すことがない。

ここは例えを述べている。「君子」とは才や徳が一般の人より優れた人物のことである。君子は(道と一体となった)「一」なる身をして天下に臨んでいる。動と静、語と黙、こうした対立するものの関係性の中に天の理の働きの不思議を見ることができる。君と臣、父と子、これらでは変わらない関係性と倫理が重んじられる。事に応じて物に接するには、道徳や仁義がひじょうに重要となる。「一」なる語は静を主とする心から発せられる。そうであるから「一」なる行為は、静や「一」を重視することなくなされることはない。終日そうであり、終日怠ることなく実践されている。そうであるから「終日、こうしたこと(「重」や「静」)を実践している」とあるのである。そして「輜重(軍需用物資)を離すことがない」とあるのは、軍事行為におい物資を運ぶ車は軍隊を食べさせて行くのに放す(離す)ことのできないものであるからである。商売で物資を運ぶことにおいても、利益を得ようとするならば、それを運ぶ車を手放すことはできない。君子の立場を説明するのに「輜重」を持ち出しているのは、つまりそれを離すことがなければ自分の身を守ることができるからである。そうであるから「つまり優れた人(君子)は終日、こうしたこと(「重」や「静」)を実践しているのであり、輜重(軍需用物資)を離すことがない」とあるのである。


『奥義伝開)原文では「不離輜重」とあり、そのように訳したが、本来はそこは「軽重」とされるべきである。「軽」は古くは「輕」と書いていて「輜」とひじょうに似ているので書き写している内に誤ったのであろう。ここでは「君子」は常に先に述べたような「軽ー重」「躁ー静」のことを知って「重」や「静」を実践していることを述べようとしている。これは行おうと意図して(有為)行うべきことではなく、無為において自然に行っていることなので終日の実践が可能となるのである。


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