宋常星『太上道徳経講義』(26ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(26ー3)
「静」は「躁」の君である。
無為を守るとは、自然であるということである。これを「静」という。無為を守ることがなければ、物事が不安定となる。これを「躁」という。よく天下を治め得る人は、無欲、無為であり自然の道に順じている。もしそうでなく意図的に行うところがあれば、それは必ず失敗してしまう。そうであるから無為をして、行うべきことの行うべき時の来るのを待たなけばならない。ただ静かにしていて、その機の熟すのを待つのである。世の「躁」なる人でも、「静」を得たなら畏れ慎んであえて盲動しようとするようなことはなくなる。そうであるからこれを「『静』は『躁』の君である」としている。
〈奥義伝開〉「躁」とは騒がしいことで、これは外の様子に左右されて自己を省みることのない状態である。あるべき生き方をするには外的な状況と共に内的な状況をもよく把握しておく必要がある。そして外的、内的な状況を把握するには「静」を得なければならない。そうであるから「静」を「君=君主」としている。静坐により「静」なる境地を得て「重」なる行動を実践する。そうすればまた「静」の気づきがあり、「重」の行動も深いものとなって行く。こうした過程を繰り返すのが修行となる。