宋常星『太上道徳経講義』(26ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(26ー1)
上古の聖賢は「重」は自重することであり、最も尊ぶべき「道」を重んじることであるとしている。「静」は「道」を養うもので、それは社会において普遍的価値を持つ「徳」を養うことであるとする。心は太極の実理と一体であり、身は陰陽の和気を有している。その根底には「徳」の実行があり、これを用いることが行為の「道」の実践の結果となる。「本」あれば「枝」が生まれる。「源」があれば「流」が生まれる。これらの働きは風が起これば雨が降るのと同じである。そしてそれはまた良い日(瑞日)には幸運を示す雲(祥雲)が出るのと同じでもある。天下の人々が、そうした「徳」を受け入れたならばこの世は間違いのないものとなろう。どのような時でもそうしたことをよく体していれば迷うこともない。そこには「重」があり「静」がある。そしてそこに「徳」が行われていることは明らかであろう。修道の人は、よく「道」「徳」により「重」や「静」を得ているであろうか。それとも「軽(軽薄)」で「重」を失ってはいないであろうか。「躁」で「静」を失ってはいないであろうか。もし身に道徳が修せられることがなければ、どうして行為においてそれを行うことができるであろうか。この章では「重」「静」は「軽」「躁」となれば失われてしまうことが述べられているのである。
〈奥義伝開〉ここでは「重」と「静」の重要性を説くと共に、それらが「軽」や「躁」と無関係ではないことに触れられる。「重」というのは「自重」といった意味で、後には儒家において「敬(つつしみ)」と称されるような行動原則と同じである。また「静」も実際的には「重」と同じであるが、あえていうなら「重」は外的な行動をいうもので、「静」は内的な心境を表しているとすることができよう。これは「徳(道を実践したのが徳)」と「道(合理的な思考による行動原則)」ということでもある。