宋常星『太上道徳経講義』(24ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(24ー7)

これらはつまり合理的(道)ということである。つまり「食べる物が余ればむだが出るが、それは『余った物』が好ましくない」と言われているのと同じである。そのため合理的(道)な思考の身についている人はそうしたことはしないのである。

ここでは「自分を正しいと思う人」や「自分で自分を誇って」いる人があげられていたが、それらは全て世の人がどうして行ってしまうような類の迷いでもある。それは心の迷いであり、感情の偏り、誤った理解でもある。そうであるからこうしたことは「病気」ということができるであろう。こうした状態は長く続くことはないし、常に行うべきものでもない。誤った妄想によるものであり、つまりは「余った食べ物」と同じなのである。「余った食べ物」が生まれるのは飲食をする時に人は大体おいて満腹になりたいと思うからである。そして満腹を感じてもさらに食べようとするからである。どのようにおいしいものであっても、満腹になればそれを食べたいとは思わないであろう。また「むだ」なものを持っていても体が健康であればそれで良いはずであろう。もし首に瘤ができたり、指が多かったりしても、生きていく上では何の障害もないが、人はこれをどうにかして取りたいと思う(これは「余り物」を嫌う気持ちと同じであろう)。「食べる物が余ればむだが出る」ようなことをあえてする「病」は、自分がそれを好ましいと思わないだけではなく、結果として捨てなければならない「物」が出てしまうと、それの処理にも苦慮することになる。そうしたいろいろなことも含めて合理的な思考のできる人は、常に合理的思考に基づいてあらゆる行動する(抱道養徳)。それが及ぶのは自分だけに限りはしない。そうであるから独りよがりになることはないし、自分が優位に立とうとすることも、誇ったり、奢ったりすることもない。それは天高くあがった太陽のようで、世間の人の触れることのできるものではない(超俗的な境地なのである)。天や地は自分というものを持たないで(無為自然のままに)働いている。こうしたことも、普通の人も真似のできることではなかろう。その性質は「中」であり、澄んだ水、曇りのない鏡のようにあるがままを写すだけである。何も求めるものはなく、どこにも留まることはない。「食べる物が余ればむだが出る」ようなところに存しているわけはないのである。この章で述べられているのは、世の人は自分が他人より高くいることを望み、自己を肯定して満足しようとして、常に思いを巡らせ、他人に勝とうとするのであるが、そうなると人々の心は日々に荒れて、道徳は失われてしまうことになる。老子は人々を正しい道に導くために、いろいろと例えを出して、天下、後世への戒めとしている。


〈奥義伝開〉古くから伝えられた諺に、食べ物が余るのは、余らせるのが悪い、とする教えがあったようである。保存技術の未発達の時代には余らせてしまうと捨てなければならなかった。そうであるから「食事は余らせないように作らなければならない」という教えがあったものと思われる。そこに老子は「余った食事」=「むだ」=捨てる=「好ましくない」とする合理的な思考のプロセスのあることを読み取る。こうした一般の人の認識し得ていない情報、つまり「余り物」を合理的思考をすることで発見することは可能であるが、それは必ずしもその時代の社会が必要としないものであることを老子は教えている。そうしたものは認められないし、あるいは阻害されることもある。静坐などで広い視野を得た人はこのあたりのことも注意しなければならないことを教えているわけである。


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