常星『太上道徳経講義』(24ー6)

常星『太上道徳経講義』(24ー6)


自分で矜(ほこ)っても、長く続くことはない。

世には自分で自分が偉いと言う者も居る。誇大なことを言って相手より優位に立とうとするのである。これが「自分で矜(ほこ)って」である。こうした人は他人が自分の良いところを見てくれていないのではないかと心配して一喜一憂する。そして常に他人の上に立とうと思う。少しばかり物事が分かり、多少は他人の知らないようなことを知ることができるようになると、どうにかして相手を陥れようと考える。そして時にそれを実行して、偽りを行い、あたかも自分が大きな存在であるかの如くに見せかけたがるが、結局はそうしたことは破綻をしてしまう。そうであるから「長く続くことはない」とされている。古の聖賢は物事の「理」を常に考えており、あるべき行いというものをも認識していた。そうした思考を深く養って、ただ天の理のままに行動することを考えていたのであって、他人から褒められたりすることは眼中になかった。人は「名声」というものが長続きしないことを理解できていない。そうであるから、ここまでに述べて来た「自分のことがよく分かっていると思う人は、よく分かってはいない」「自分で正しいと思っているようなことは、かえってよくない」「自分で誇っても、それが他人から功績として認められることはない」といったことの意味を解することができないのである。またこれらは「爪先立って(跂)いては足を上がげることはできないし、大股で歩いた(跨)からといって目的地までの距離が縮まるわけではない」で示された「理」と同じこと(である合理的な道理)を述べたものでもある。


〈奥義伝開〉ここも「自ずから矜(つつし)んでても、尊ばれることはない」と読むのが適当であろう。「矜」には「つつしむ」、「長」には「尊とぶ」の意があるのでそちらを取った。敬(つつしみ)は無為自然にあって基本となるべきものであるが、そうした態度は他人に気付かれることも少ないので評価されることも多くはない。また、これが自然な行動であるから余計に他人が気づくことがない、ということもある。儒教では「慎独」というが、これはこうした行動原則を教えているものである。他人の評価で左右されるのではなく独(ひとり)で「つつしむ(慎)」ことが重要なのであり、また「つつしむ」とは他人に左右されない超越的な視点を養うことでもある。シュタイナーは『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』で「畏敬」の念を育てることの重要性を強調しているが、それは老子が述べているのと同じである。もちろん人には五感以外の「超感覚」などは無いが、シュタイナーが持って回っていろいろと言っているのも要するに他人に左右されない「超越的感覚」のこ

となのである。薔薇十字とブラヴァツキー、ドイツ観念論の「カルマ」を外せばシュタイナーの言うことは簡単明瞭とすることができよう。

 

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