宋常星『太上道徳経講義』(24ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(24ー5)

自分で誇っても、それが他人から功績として認められることはない。

世の中にはただ一人でなにかを為した人は居る。また他人の功績を自分がなしたことのように言う人も居る。ある時にはこうした偽りを言う人が称賛をされたりもしている。大体において、自分で誇って功績を認めさせようとするのは、とにかく自分の「功績」を失いたくない人である。こうした人は、結局のところいろいろな才能があったとしても、はたしてよく国を治めることができるであろうか。民の暮らしを豊かにすることができるであろうか。本当の意味で、功績を認めさせようとするのであれば、老子は「功績」を求めないことでこそそれがよく果たされるとする。つまり聖賢は長き世にわたってその「功績」を称賛されているが、それは自分はそうした「功績」にはこだわらないからである。そうなると古今東西の人々はことごとくその「功績」を、為した聖賢のもとのして認めることとなる。聖賢は「功績」を認めさせようとはしない。そうであるからこそ「功績」は正しく認められることになるわけである。一方で「自分で自分で誇る」ような人は、かえってそれが認められないのである。


〈奥義伝開〉ここも「自ら行ったことは、それが他人から功績として認められることはない」と読むべきと考える。無為自然で行ったことはあまりに「自然」なので他人が気づかないからである。例えば仕事や生活の都合など何でもないことで引っ越しをしたら、前に澄んでいt地域がおおきな災害に見舞われた、というようなことである。これは周囲からすれば何でもない日常的なことが起こっているに過ぎない。決して占いや予言によって引っ越しをしたわけではないからである。しかし、こうしたことを適切に行うには「無為自然」の「良知」を得ていなければならない。それを占いや霊言などの迷信によって行おうとしてもできるものではない。またそうした行為は生活にいろいろな「弊害」を生んでしまうことになる。


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