宋常星『太上道徳経講義』(24ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(24ー4)

自分で正しいと思っているようなことは、かえってよくない。

認められるべきは認められるようになるものであるが、それは意図的に自分の正しさを認めさせようとすることと、「認められる」という点において違いはない。つまり、これらは「認められる」という一点において区別することはできない。しかし、これらはそれぞれ違ったプロセスを経るものであり、互いにどちらかが良いとすることもできないであろう。天、地、人のどこにあっても、そこに「理」が働いていることは言うまでもなく明らかであり、鬼神でも、あの世でもこの世でも、その「理」の意味するところは明確である。ここに「自分で正しいと思っているようなこと」とあるのは、自分自身で自分を肯定している人のことである。自分の考えを固く持って、他人と対立し、常に自分を正しいと考え、相手を打ち負かそうとしている人のことである。そして他人もまた自己のみを正しいとして、常に自分に勝とうとしていると思っている。そうであるから他人を信じることはなく、最終的には自分の小賢しさにとらわれて、天下や後世に認められることがない。そうなればその人は「かえってよくない」ということになるわけである。聖賢は正しいことは正しいとし、正しくないことは正しくないとする。それは五行が移り変わり、四時が巡るようなもので、周囲も自分も認めることのできる「理」こそが天地が正しいとするところのものなのである。生まれるべきは生まれ、成るべきは成る。こうしたことこそが万物において正しいとされるところのものなのである。そうであるからこうした判断ができなければ正しい理解とは言えないのであり、そうした判断がなされなければ、本当にそれが正しいかどうかは分からないわけである。


〈奥義伝開〉ここは「自ずから正しいことは、一般にはよく彰(あきら)かではない」と読むべきであろう。これも合理的思考によって何が正しいか、が分かるようになる、とする教えである。「正しさ」は時代や地域によっても同じではないが、そうした中でおおよそ普遍的な「正しさ」であろうものの一つに「人権」がある。「人権」はいろいろな人が合理的思考を経て見出して来たものである。しかし、このように合理的思考により社会の矛盾などが分かっても、一般に人は「あたりまえ」として受け入れらないことが多いわけである。「人権」に関しても、少し前までは「奴隷」が居て当然の時代があったことを忘れてはならない。


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