宋常星『太上道徳経講義』(24ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(24ー3)

自分のことがよく分かっていると思う人は、よく分かってはいない。

「自分のことがよく分かっていると思う人」とは、私だけを見て、公を見ないということである。こうした人を「自分のことがよく分かっていると思う人」としている。こうした人は自分の利益だけを考えて物事を見ているわけで、天の理があまねく働いていることを見ようとはしない。あるいは悪知恵を働かせて、何でもかすめ取ろうとする。または自分勝手なことをする。これは始めだけを考えて、終わりがどうなるかを見ようとしてないからである。行為の本質を見ようとしていないのであり、真実のあるべきを見ようとはしない。物欲はとらわれやすいものであるが、それを明らかに自覚しようとする人はなかなか居ないものである。ただ無私、無我、無為、無欲であれば、自己にそうした欲望のあることが明らかに見えてくる。大きく見れば社会のどこにでもそうした欲はあるし、小さく見れば身の回りのそこここにあるのを見るであろう。「自分のことがよく分かっていると思う」ような人物では、こうした正しい見解を抱くことはできない。


〈奥義伝開〉これよりの四例は「自」をどのように読むか、が問題となる。一般的には「自らは」として、冒頭にあげたような解釈とする。しかし、わたしは「自ずから」として「自から見えてくるものは、他人にはそれが明らかではない」と読む。そうであるから以下の四つは「無為自然で得たものは、一般には認められない」ことを述べているとする。老子は第四十一章でも一般の物事をよく理解できない人は、道のことを聞いても笑うだけである、としている。こうした無理解のことがここでも述べられている。よく「あの考えは時代の二歩も三歩も先を行っていた」と後になって評価されるものの多いことは歴史に明らかであり、そうしたものが発表当時には理解されることがなかったことの多くあるのも事実なのである。老子はこうした世に受け入れられなくい考えを持つことも自由であるとする。


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